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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―蘆名義広  最後の当主


※アイコンは公孫修

蘆名義広(あしな・よしひろ)
常陸の人(1575~1631)

常陸の大名・佐竹義重(さたけ・よししげ)の次男。
1584年、当主の蘆名盛隆(あしな・もりたか)が痴話喧嘩から家臣に殺され、その子もわずか3歳で没したため、蘆名家は同盟する他家から養嗣子を迎え入れる必要に迫られた。
一門衆の猪苗代盛国(いなわしろ・もりくに)らは伊達小次郎(だて・こじろう)を、金上盛備(かながみ・もりはる)ら重臣は義広を推し、政争の末1587年に義広が当主として迎えられた。

しかし13歳の義広は国政を取り仕切れず、佐竹家から送り込まれた大縄義辰(おおなわ・よしとき)ら家臣団が専権を振るい、伊達方についた蘆名家の家臣を次々と失脚させた。
当主の話が破談となり、支持派を次々と葬られた伊達政宗(小次郎は彼の弟)も激怒し、蘆名家との関係は完全に決裂した。

同年、蘆名・伊達家の援助により7年にわたり上杉家への反乱を継続していた新発田重家(しばた・しげいえ)が、豊臣秀吉の支援を得た上杉景勝によって討たれた。
1588年の郡山合戦では、佐竹家・相馬家と組み伊達政宗と戦うも敗北。
1589年には先に伊達小次郎を擁立した猪苗代盛国が伊達家に寝返るなど、蘆名家は坂を転げ落ちるように衰退していき、ついに摺上原の戦いで政宗に大敗し息の根を止められた。
蘆名四天王に数えられる富田氏実(とみた・うじざね)をはじめ多くの家臣があるいは勝手に戦線離脱し、あるいは傍観しとまともな戦にならず、他の四天王や金上盛備らが戦死した。

義広は無事に逃げ切ったがもはや抵抗する力はなく、大縄義辰らとともに佐竹家へ落ち延びていった。
同行する人数は20名とも、女中ら非戦闘員を合わせ119名とも記される。
これにより戦国大名としての蘆名家は滅亡し、1590年に秀吉の奥州仕置によって伊達政宗は蘆名領を全て没収されたものの、義広に返還されず蒲生氏郷(がもう・うじさと)に与えられてしまった。

その後、義広は佐竹家の与力大名として常陸江戸崎に4万5千石を与えられ大名に復帰したものの、1600年の関ヶ原の戦いで兄の佐竹義宣(よしのぶ)が西軍に与したため、再び所領を没収された。
義広は大名復帰に際し蘆名家の伝統にちなみ盛重(もりしげ)と改めていた名を、佐竹家にちなんだ義勝(よしかつ)と改め、秋田に転封した義宣に付き従った。
角館に1万6千石を与えられると城下町の発展に尽くし、1631年に没した。享年57。
摺上原の戦いの際には20名ほどしかいなかったが、角館に蘆名家の旧臣は200名ほど集まっていたという。

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