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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―池田輝政  姫路宰相


※アイコンは姜維

池田輝政(いけだ・てるまさ)
尾張の人(1564~1613)

織田信長の乳兄弟・池田恒興(つねおき)の次男。輝政の名で著名だがこれは死の4年前に改名したもので、それまでは「照政」の字を使っていた。
幼い頃は活発だったが、長じると思慮深く寡黙な人物に育ち、父や兄・池田元助(もとすけ)と同様に武勇に優れ、若くして多くの戦功を挙げた。
1584年、小牧・長久手の戦いで父と兄が揃って戦死すると家督を継ぎ、豊臣家の重臣として主要な戦のほとんどに参戦した。
父らの戦死を聞いた時、輝政も斬り死にしようとしたが家臣の番藤右衛門(ばん・とうえもん)が必死に馬の口を抑え押し留めたといい、輝政はそれを終生恨みに思い、彼を褒めることも加増することもなく、輝政の死後にようやく加増されたという。

秀吉からの信頼は厚く、一門衆に準じる扱いを受け、1594年には秀吉の仲介により徳川家康の娘・督姫(とく)をめとった。
翌年に豊臣秀次(ひでつぐ)が失脚し、秀次に嫁ぐ直前だった最上義光(もがみ・よしあき)の娘すら死罪を命じられるなど妻妾のほとんどが厳罰に処される中、秀次の正室だった輝政の妹は特別に助命されている。
またこの頃、父を討ち取った徳川家の家臣・永井直勝(ながい・なおかつ)を召し出し、父の最期の様子を尋ねた。
輝政は直勝が5千石の小身と聞くと「あの父の首がたった5千石か」と不機嫌になり、家康に口を利いてやり1万石へ加増させたという。

1598年、秀吉が没すると加藤清正、福島正則らとともに石田三成と対立し、翌年に前田利家が没し抑えが無くなると三成の屋敷を襲撃し暗殺未遂事件を起こした。
1600年、関ヶ原の戦いでは東軍につき先鋒として岐阜城を落とした。だが本戦では西軍に付きながらも裏で内応していた吉川広家(きっかわ・ひろいえ)の抑えに回されたため戦闘に参加できなかった。
それでも岐阜城攻略を高く評価され戦後は播磨姫路52万石に加増された。先に受けていた三河15万石から3倍以上の大加増で、諸大名からは家康の娘婿だからと七光り扱いされた。
中でも福島正則は辛辣で「我々は槍で国を取ったが、お前はイチモツで国を取った」と皮肉ると、輝政は平然と「いかにもイチモツで国を取ったが、槍を使えば天下を取れたろう」と言い返したという。
ちなみに岐阜城攻めで輝政と正則は一番乗りを競ったが、実際には輝政が一番乗りを飾ったものの正則に功を譲った経緯があり、それなのに正則の皮肉はいささか大人げない。

輝政は姫路城を改修し城下町を大いに発展させ、息子らや弟もそれぞれ大名に列し、池田家はあわせて92万石の大身となり、1612年に正三位参議に叙されると参議の唐名にちなみ「姫路宰相」や「西国将軍」と呼ばれた。
だが1613年、輝政は50歳で急死した。同時期に豊臣家と縁深い加藤清正や浅野幸長(あさの・よしなが)も若くして没しており、しかもいずれも同じ病と記されることから、徳川家康による暗殺説が根強いものの、輝政の場合は家康と昵懇なことから「秀吉の呪い」ともささやかれた。

家督は嫡子の池田利隆(としたか)が継ぎ、池田家は徳川幕府の親藩に準じる扱いのまま、明治期まで続いた。

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