忍者ブログ

夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―徳川秀忠  二代将軍

×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

戦国列伝―徳川秀忠  二代将軍


※アイコンは曹丕

徳川秀忠(とくがわ・ひでただ)
遠江の人(1579~1632)

徳川家康の三男。江戸幕府の第二代征夷大将軍。
長兄・信康(のぶやす)は秀忠の生年に切腹し、次兄の秀康(ひでやす)は豊臣秀吉の養子に出され、後に結城家を継いだため三男ながら早くから後継者として育てられた。

1590年、元服すると小田原征伐の際に実質的に人質として秀吉に預けられ、一字拝領し秀忠と名乗った。
織田信雄(おだ・のぶかつ)の娘で秀吉の養女をめとったが、間もなく信雄が秀吉の逆鱗に触れ改易となったため離縁された。
1595年、秀吉の養女で浅井長政の三女・江(ごう)と再婚した。秀吉は浅井長政の長女・淀殿(よど)を側室にしているためいちおう秀吉とは義兄弟となる。

1600年、関ヶ原の戦いで初陣となるが、4万近い大軍を率い中山道を進み信濃上田城を攻めるものの、わずか2千の真田昌幸(さなだ・まさゆき)・幸村父子に翻弄され、また悪天候で家康の進軍命令も届かず、関ヶ原の本戦に間に合わなかった。
諸将の制止を無視して城攻めを決めた秀忠に家康は激怒し、体調不良を名目に面会を断ったという。
それでも父の信頼は揺るがず1603年、征夷大将軍となった家康は秀忠を次期将軍候補が任官される右近衛大将に任命させ、徳川家による将軍職の世襲を確定させた。

1605年、家康はわずか2年で将軍職を秀忠に譲る。
家康は隠居し「大御所」と呼ばれるが、実権は依然として握り、秀忠との二頭政治を布いた。
主に秀忠は親藩・譜代大名を統括し、家康は外様大名を担当したという。
1614年、大坂冬の陣では家康とともに出陣した。その際、関ヶ原の遅参を反省してか強行軍で進撃したため、大坂に着いた時には将兵は疲労困憊で、かえって家康に叱責されたとする逸話も伝わる。
翌1615年、夏の陣では真田幸村、毛利勝永(もうり・かつなが)、大野治房(おおの・はるふさ)らの突撃により本陣まで切り崩された。
秀忠の馬廻りも多くが戦死し、一時は秀忠と柳生宗矩だけが残される窮地に陥ったが、宗矩が7人を斬り捨て九死に一生を得た。

翌1616年、家康が没すると名実ともに徳川家の中枢に立ち、酒井忠世(さかい・ただよ)、土井利勝(どい・としかつ)ら有能な側近で周囲を固め、福島正則ら外様の有力大名、本多正純(ほんだ・まさずみ)ら重臣中の重臣、弟の松平忠輝(まつだいら・ただてる)らをも咎があれば改易し、弟の徳川頼宣(よりのぶ)らを江戸から出して尾張・紀伊・水戸に配し、地方を固めるとともに兄弟すら将軍の命令には逆らえないという威権を表した。
また娘の和子(かずこ)を後水尾天皇に嫁がせ朝廷ににらみを利かせ、鎖国政策の手始めとして平戸・長崎以外への外国船の寄港を禁じた。

1623年、将軍職を嫡子の徳川家光に譲るが、父と同じく大御所として二頭政治を布いた。
1630年には孫娘が明正天皇として即位し、秀忠は天皇家の外戚となった。
1632年に死去した。

1958年、霊廟の移築のため秀忠の遺体が掘り起こされ調査したところ、推定身長は当時の平均に近い157.6センチ、遺骨には多くの銃創が残っており、早くから家康の後継者に目され参戦経験も少なく、武勇に優れた印象もない秀忠だが、骨にまで残るほど激しい銃撃にさらされる前線で果敢に指揮を取っていた、という意外な姿がしのばれた。

拍手[0回]

PR

コメント

プロフィール

HN:
小金沢
性別:
非公開

P R