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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―平岩親吉  滅私奉公の男

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戦国列伝―平岩親吉  滅私奉公の男


※アイコンは文聘

平岩親吉(ひらいわ・ちかよし)
三河の人(1542~1612)

徳川十六神将の一人。
主君の徳川家康と同い年で、今川義元の人質時代から側近くに仕えた。
家康からの信頼厚く、長男の松平信康(まつだいら・のぶやす)が元服すると傅役を命じられたが、1579年に織田信長の勘気を蒙り、信康は切腹を命じられた。
親吉は自分の首と引き換えに助命嘆願したが許されず、信康が自害すると責任を取り蟄居した。なお近年の研究では信康自害は信長の命ではなく家康の意向とする説も有力視されている。

1582年、本能寺の変で信長が討たれると、混乱に乗じて家康は甲斐を奪い、親吉に統治させた。
家康が豊臣秀吉の命で関東に移封されると親吉も上野厩橋3万石に移されたが、1600年の関ヶ原の戦いで家康が覇権を握ると、再び甲斐甲府6万石に戻った。
1603年、徳川義直(よしなお)が甲斐25万石に封ぜられた時も、義直が幼少のため親吉が傅役かつ代理として甲斐を統治した。
義直からの信頼も厚く、尾張に移封となると家老として藩政を任され、尾張犬山に12万石を得た。

1611年、70歳で没した。
親吉には男子が無かったため家康は自分の八男を養嗣子として与えていたが、彼も1600年に没しており、平岩家は断絶の危機に見舞われた。
親吉は所領を義直に譲るよう遺言していたが、家康は八方手を尽くして私生児を探し、ようやく見つけたものの母親に否定されてしまい、やむなく断絶となった。
こうして本家は途絶えたものの、庶家は義直に仕え、また他の一族は姫路で現在まで続いている。


~滅私奉公の男~
無私無欲の性格を表す逸話がいくつも伝わっている。

秀吉が伏見城を築いた時のこと、本多忠勝、井伊直政、榊原康政(さかきばら・やすまさ)、親吉らに祝儀として黄金百枚を与えた。
忠勝と直政は受け取り家康には黙っていた。康政は家康に報告し、許可を得てから懐に収めた。
親吉は「家康に禄を受け衣食足りているのに受け取るいわれはない」と突き返したという。

親吉の弟が、若い頃の榊原康政と諍いを起こし、斬られて傷を負った。
すでに家老の地位にいた親吉は「康政は今は小身だが才知に長け勇敢で、いずれ主君の役に立つ傑物だ。弟は人に斬られる程度の役立たずである」と裁定し、弟に兵法を習うのをやめさせ、逆に康政を推挙したという。

1611年、家康と豊臣秀頼(ひでより)が会見した後、同席していた加藤清正が急死した。
親吉も9ヶ月後に没しており、それを受けて毒まんじゅうによる暗殺説がささやかれ、後に歌舞伎の題材となった。
内容は以下の通りである。
家康は秀頼の暗殺を企み、遅効性の毒を仕込んだ毒まんじゅうを秀頼に勧めた。警戒を解くため親吉が進んで食べたが、意図を見抜いた清正が横からまんじゅうを全て平らげ、揃って毒死したというのである。
創作にすぎないが、この会見から2年のうちに池田輝政(いけだ・てるまさ)、浅野幸長(あさの・よしなが)ら豊臣恩顧の大名が相次いで(それも清正と同じ病名で)急死し、毒殺説がささやかれ、また親吉も若い頃に信長の命を受け、家康の叔父である水野信元(みずの・のぶもと)を暗殺しており、虚実入り交ざったいくらかの信憑性を与えている。

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