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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―奥平信昌  長篠城を死守




奥平信昌(おくだいら・のぶまさ)
三河の人(1555~1615)

はじめは奥平貞昌(さだまさ)と名乗った。
もともと奥平家は今川家に仕えていたが、1560年、桶狭間の戦いで今川義元が戦死したのを機に徳川家に鞍替えした。
しかし1570年頃、武田家の侵攻を受けてやむなく降った。徳川家康は武田家の勢力を削るため奥平家を引き抜きたいと考え、織田信長に方策を相談した。
信長は家康の長女・亀姫(かめ)を奥平家の嫡子・貞昌に嫁がせるよう命じ、それを受け奥平家は徳川家に帰参した。

1575年、武田勝頼(たけだ・かつより)は1万5千の大軍で貞昌の守る長篠城を包囲した。
貞昌はわずか5百の手勢でよく防ぎ、家臣の鳥居強右衛門(とりい・すねえもん)を家康のもとへ送り援軍を要請。駆けつけた織田・徳川連合軍は武田軍を大破した。
信長は貞昌の働きを激賞し、自身の名から一字を与え「信昌」と名乗らせた。織田家以外で一字拝領した者は他にもいるが、友好の証として贈られた儀礼的なものばかりで、戦功を称えられ拝領したのは信昌だけである。
家康も労をねぎらい、名刀を与えた他、籠城戦に貢献した奥平家の重臣12名に子々孫々まで待遇を保証するなどしたという。
また創作はおろか歴史系サイトや出版物などでも、長篠の戦いの活躍で亀姫の婿になったと書かれることがあるが、先に記したように嫁入りは戦前のことである。

その後も信昌は徳川家の重臣として活躍した。
1585年、徳川家の宿老・石川数正(いしかわ・かずまさ)が出奔すると、家康は軍事機密の漏洩を恐れ、軍制を武田信玄流に改めたが、その際に武田家の旧臣だった信昌は大いに貢献したという。
主要な戦のほとんどに参加し、1600年の関ヶ原の戦いでは潜伏していた安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)を捕らえ、また京都所司代として統治に当たった。
美濃10万石の他、長男にも下野10万石を与えられ、末子の松平忠明(まつだいら・ただあき)は家康の養子となり、一門衆の扱いを受け、奥平家は明治期まで続いた。

松平忠明は二代将軍・徳川秀忠に、変事が起こった時には後を託すとまで言われたほど信頼され、また一級史料の「当代記」を遺している。

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