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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―南光坊天海  謎の怪僧

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戦国列伝―南光坊天海  謎の怪僧


※アイコンは南華老仙

南光坊天海(なんこうぼう・てんかい)
陸奥の人(1536?~1643)

徳川家康の側近。
出自を語らなかったため前半生の事績は不確かだが、蘆名家の一族だという。
はじめは随風(ずいふう)と名乗り天台宗を修めたが、織田信長による比叡山延暦寺の焼き討ちを機に山を降り、武田信玄に招かれ甲斐に移った。
その後は蘆名家に招かれ陸奥へ、上野、武蔵と関東を転々とし、やがて天海を名乗ると1590年、小田原征伐の頃に徳川家康に仕えた。
僧侶ながら家康の参謀として政治・軍事を問わず献策し、朝廷との交渉役も務めた。

1600年、関ヶ原の戦いに勝利した家康は幕府を開くにあたり、天海の意見をもとに江戸を選んだ。
天海は風水や陰陽道に基づき呪術的に江戸を守るため区画割りや設計を行ったといい、1640年に完成するまで全工程に関わった。

1616年、危篤に陥った家康は天海と、臨済宗の僧侶でやはり参謀を務めた以心崇伝(いしん・すうでん)に自身の葬儀を委ねた。
二人の意見は対立したが、天海の主張が通り家康は「東照大権現」として日光に葬られた。

天海は家康の死後も徳川幕府に重用され、没した時には百歳を悠に超える長命だったという。


~~天海=明智光秀説~~
謎に包まれた前半生から創作では彼を12代将軍・足利義晴(あしかが・よしはる)の落胤とするなど様々な説が挙げられるが、中でも最も著名なのは明智光秀と同一人物とするものである。
以下にその傍証を記す。

・日光東照宮の装飾に多数の桔梗紋が用いられているがこれは明智家の家紋である
・天海の墓所に天海自ら名づけた「明智平」という地名がある
・比叡山には光秀が没した1582年以降に「明智光秀」の名で寄進された石碑が残る
・実戦経験が無いはずの天海の甲冑が現存し、関ヶ原の屏風絵には家康本陣に天海の姿がある
・徳川家光の乳母を務め後に絶大な権力を有した春日局は、光秀の腹心・斎藤利三(さいとう・としみつ)の娘
・光秀の孫にあたる織田昌澄(おだ・まさずみ)は大坂の陣で豊臣方についたが、戦後に助命されたばかりか旗本に登用された

それぞれ反証もあるがいずれにしろ夢のある話であり、さるテレビ番組で天海と光秀の筆跡鑑定をしたところ「同一人物か、親子など非常に近しい人物」という結果が出たという。
いつか真偽が明らかになる日は来るだろうか。

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