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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―甲斐宗運  阿蘇家の不敗軍師

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戦国列伝―甲斐宗運  阿蘇家の不敗軍師


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甲斐宗運(かい・そううん)
肥後の人(1515~1583)

肥後の大名・阿蘇家の軍師。宗運は法号で本名は甲斐親直(ちかなお)。生涯で60数回の戦に出陣し不敗と伝わる。

阿蘇家は小勢力ながら北は大友家、南は相良家と同盟を結び長く安定を保っていた。
だが薩摩の島津家が台頭し、1578年に耳川の戦いで大友家に大勝すると均衡は崩れた。
肥後の国人衆の多くは島津家や、同じく勢力を強めていた肥前の龍造寺家に鞍替えしたが、宗運は変わらず大友家との同盟を継続させた。
1580年、利害の一致したそれら国人衆の連合軍が阿蘇家を攻め、宗運が迎え撃った。
川を挟んで対陣したが前夜の大雨で川が増水し、渡河を諦めた隈部親永(くまべ・ちかなが)が酒盛りをしていると聞くと、宗運は未明に強行渡河して急襲し大勝した。

だが1581年、宗運は大友家に見切りをつけ阿蘇家を龍造寺家に鞍替えさせた。
一方で相良家は島津家に降伏し、当主の相良義陽(さがら・よしひ)は阿蘇家の攻撃を命じられた。
だが義陽と宗運は昵懇の間柄で、主家と親友の間で板挟みになった義陽は自らの死を祈願して出陣し、無防備な平原に陣を敷くと甲斐軍の猛攻にさらされても一人退却せず、床机に腰掛けたまま首を取られた。
義陽の首を眼にした宗運は落涙し「これで島津家を妨げる者はいなくなった。阿蘇家もあと数年の命だろう」と語ったという。

阿蘇家はしのぎを削る島津家、龍造寺家の二大勢力のどちらにも肩入れできず、また島津家も宗運を恐れて容易に手出しできず、宗運は両家の間を渡り歩く外交戦略で阿蘇家の命運を保とうとしたが1583年、急逝した。孫娘に毒殺されたとする説もある。
「島津家には決して戦いを仕掛けず守勢に徹し、天下を統一する者が現れるのを待て」と遺言したがその2年後、嫡子の甲斐親英(ちかひで)が不用意に島津方の城を攻めたことにより報復を受け甲斐家は降伏。
残された阿蘇家もわずか2歳の当主を抱えてはなす術も無く、やはり島津家に降った。


~甲斐宗運毒殺説~
宗運は嫡男・甲斐親英の娘、つまり孫娘に毒殺されたとする説がある。

阿蘇家に忠誠を誓う宗運は、それを裏切る者は一族だろうと容赦せず、日向の伊東家に内通した次男・三男・四男をもことごとく誅殺した。
いくらなんでもやりすぎだと宗運の排除を企んだ親英も殺そうとしたが、それは家臣の嘆願により止められた。
親英の妻は激怒したが、かつて伊東家との内通を疑われた父が宗運に殺された際に「決して宗運を恨まず、復讐もしない」と神前で誓わされていたため自分では手を下せず、娘に命じて毒を盛らせた、という。

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