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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―島津貴久  島津の英主

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戦国列伝―島津貴久  島津の英主


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島津貴久(しまづ・たかひさ)
薩摩の人(1514~1571)

薩摩の大名。父の島津忠良(ただよし)は島津家の中興の祖と讃えられた名将だが、貴久もそれに劣らず「島津の英主」とうたわれる。

貴久が生まれた当時、島津宗家は当主の早逝が相次ぎ、一門衆や国人衆も多くが離反し弱体化していた。
そこで宗家当主の島津勝久(かつひさ)は相州島津家の忠良に助けを求め、忠良の嫡子・貴久を養子に迎え家督を継がせると、自らは隠居し忠良に国政を委ねた。

薩州島津家の当主・島津実久(さねひさ)はそれに不満を持ち、勝久を抱き込むと忠良・貴久に攻撃を仕掛け、勝久は養子縁組を解消すると、守護職の譲渡も無効化した。
ところが勝久と実久は対立してしまい、かつて忠良らを迎え入れた反勝久派は、今度は実久を当主として擁立し、勝久を追放した。
勝久は忠良・貴久に庇護を求め、1539年、激戦の末に貴久らは勝利し、実久は実権を失い、勝久もまた支持を得られず母の実家の大友家へと落ち延びていった。

これら一連の流れは貴久らによる記録の改竄もあり、従来は単に実久による謀叛とされていたが、近年の研究ではもともと勝久の家督譲渡は本人よりも重臣らの意思によるもので、内心では勝久も不満を抱いていたと考えられている。

薩摩の国主となった貴久だが、急激な台頭は他の一族や国人衆の反発を招き、劣勢に追い込まれた。
しかし忠良は巧みな戦術で反対派を撃破するとともに、朝廷を利用した外交戦略や、海外貿易で優位を築き(日本で初めて鉄砲を実戦投入したのも島津家である)名実ともに国主の座を確立していき、1552年にはようやく薩摩統一を見た。

忠良は1550年に隠居したが依然として実権は持ち、1568年に没するまで内外にわたり島津家を援護した。
貴久も1566年、嫡子の島津義久(よしひさ)に家督を譲り隠居したが、大隅の攻略に関わり続け、1571年に57歳で没した。

忠良・貴久と二代にわたり力を蓄えた島津家は義久の代に花開き、貴久の没後わずか1年で旧領の大隅・日向を奪回したのみならず、九州全域へと覇権を広げるのだった。

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