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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―島津忠恒  悪い方の家久

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1. はじめまして

私は、斬り殺された忠棟の弟側の末裔になります

2. 無題

それはすごい! うちは名も無き農民の末裔です

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戦国列伝―島津忠恒  悪い方の家久



島津忠恒(しまづ・ただつね)
薩摩の人(1576~1638)

島津義弘の三男。島津家の当主・島津義久(しまづ・よしひさ)に男子がなく、二人の兄も早死にしたため、豊臣秀吉によって後継者に指名された。
後に徳川家康から一字拝領し島津家久(しまづ・いえひさ)に改名したが、同名の叔父がいるため旧名の忠恒で呼ばれることが多い。

後継者となる前は蹴鞠と酒色におぼれ、たびたび父から注意を受けていた。だが当主になることを自覚してからは心を入れ替え、父とともに朝鮮出兵で軍功を立てた。

1599年、いち早く秀吉、家康に取り入り権勢を強めていた筆頭家老の伊集院忠棟(いじゅういん・ただむね)を暗殺した。
忠棟の子・伊集院忠真(いじゅういん・ただざね)は一時反乱を起こし、和解後も不穏な動きを見せていたため、1600年の関ヶ原の戦いに際し、島津家は伊集院家を警戒し(また西軍につくか東軍につくかで義弘と義久の意見が分かれてもいた)義弘の率いるわずか800の兵しか送れなかった。
その後、伊集院忠真(忠恒の妹婿でもある)は忠恒によって暗殺された。遺された姪(忠真の娘)はさすがに不憫に思ったのか、自身の養女とし、家康の甥に嫁がせた。

関ヶ原後、父は西軍についたものの、兵力の大半は国許に温存しており、当主の島津義久は家康に恭順の姿勢を見せたため、本領安堵となった。
同年に家督を継いだが、1619年頃まで父が実権を握っていた。しかしこの間にも琉球の占領、明との密貿易、鹿児島城の築城など国力の増強を主導し、また妻子を江戸に送り参勤交代の先駆けとなるなど、幕府内の地位も向上させた。

一方で個人としては妻(義久の娘)との間に子供ができなかったため、徳川秀忠(とくがわ・ひでただ)の子を養子に取ろうとして後継者問題を起こし、対立した義久の家老を暗殺したり(数年後に家老の一族も皆殺しにした)、義久が江戸に赴いた隙をつき幕府から妻の離縁の許可を得たり、義久が没するとすかさず妻を別居させ、8人の側室を囲うとまるで当てつけのように25年間で33人もの子をもうけ(ちなみに子供は分家の当主に据えたり重臣の養子や妻に押し付けたりとうまく活用している)、妻が亡くなるとその女中に「妻が亡くなり悲しい。袖が涙で濡れてしまうかと言われればそれほどではないが(意訳)」という短歌をわざわざ送りつけ、妻の墓も建てない(なお現在は建てられているが島津家当主の墓の中で忠恒夫妻の墓だけが並んでいない)など鬼畜の所業が目立った。
そのためネット上では知将として名高い同名の叔父を引き合いに「悪い方の家久」「島津悪久」の呼称が定着している。
しかし大坂の陣での真田幸村の奮闘を称賛し著名な「真田日本一の兵」の評を残したり、雨の中さらされた長宗我部盛親(ちょうそかべ・もりちか)に自分がずぶ濡れになるのもいとわず笠を与えるなど、武士に対しては礼をわきまえていたようではある。

1638年、64歳で没した。酷薄な人柄だったが殉死者も9名出ている。

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1. はじめまして

私は、斬り殺された忠棟の弟側の末裔になります

2. 無題

それはすごい! うちは名も無き農民の末裔です

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小金沢
性別:
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