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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―佐伯惟教  出戻り名参謀


※アイコンは程昱

佐伯惟教(さえき・これのり)
豊後の人(??~1578)

大友宗麟(おおとも・そうりん)に仕えた重臣。
宗麟の家督相続に貢献し、外様家臣の中では筆頭格に目された。
しかし家中では宗麟の父に惟教の祖父が暗殺されるなど、大友一族と外様の間で内紛が深刻化しており、1556年には外様の重臣である小原鑑元(おばら・あきもと)の反乱を招いた。
惟教はそれに与しなかったものの、宗麟は同じ穴のムジナと見なして討伐軍を差し向けた。
惟教は佐伯一族を伴って伊予の西園寺家に亡命し、そこで10余年を過ごした。

その後、大友家は北九州に勢力を伸ばす毛利元就に苦戦を強いられると、水軍の経験豊富な惟教の待望論が巻き起こり、重臣の臼杵鑑速(うすき・あきはや)の仲介により1569年に惟教は帰参した。
惟教の活躍もあり毛利軍は北九州から撤退し、翌年には居城を返還され、立花家を継ぐため加判衆(大友家の重臣団)を辞した戸次鑑連(べっき・あきつら 後の立花道雪)に代わり加判衆の筆頭格に返り咲いた。
また1572年に伊予の西園寺家と一条家が争うと、宗麟の命で惟教は旧恩ある西園寺家を攻撃し降伏させた。

1577年、薩摩の島津義久(しまづ・よしひさ)によって日向の伊東家が滅ぼされた。
それまで大友家に与していた日向の国人衆は動揺し、惟教の妹婿である土持親成(つちもち・ちかしげ)が島津家に寝返った。
惟教は自ら仲裁に入ったものの宗麟は討伐を命じ、惟教の手によって親成は捕らえられ、助命嘆願も虚しく処刑された。

1578年、宗麟は重臣の反対を押し切り、島津家への攻撃を仕掛けた。
惟教も高城攻めを命じられ、救援に現れた島津家久(いえひさ)軍を撃破したものの、強行軍で士気の低い田原親賢(たわら・ちかかた)ら本隊の動きは緩慢で、結局は家久の入城を許してしまった。
そこに島津義久の大軍が迫っていると急報が入ると、惟教は城の包囲を継続し増援を待つ持久戦を献策し軍議もまとまりかけたが、田北鎮周(たきた・しげかね)は慎重論に猛反対し、かくなる上は手勢を率いて討ち死にすると言い残し、勝手に進撃を始めてしまった。

総大将の田原親賢は戦の経験浅く、人望も薄かったため総意をまとめ切れず、田北軍に引きずられるように大友軍はずるずると進軍した。
惟教は兵力差を活かし中央突破を図ったが、島津家久が高城から出撃し背後を襲うと、焦った親賢は全軍撤退を指示してしまい、大混乱に陥った大友軍は壊滅的な損害を受けた。
惟教と二人の息子、田北鎮周ら多くの重臣も戦死したこの耳川の戦いの大敗により、大友家は一気に衰退への道を突き進むこととなる。

佐伯家は孫の佐伯惟定(これさだ)が継ぎ、大友家の滅亡後は豊臣秀保(とよとみ・ひでやす)に、秀保も間もなく没するとその家臣の藤堂高虎に仕え、幕末まで存続した。

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