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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

戦国列伝―遠藤慶隆  戦国一不幸な男

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戦国列伝―遠藤慶隆  戦国一不幸な男


※アイコンは諸葛誕

遠藤慶隆(えんどう・よしたか)
美濃の人(1550~1632)

遠藤家は美濃の国人衆で、斎藤家に仕えていた。
父は主家を滅ぼして八幡城を奪った剛勇の人だったが、慶隆が13歳の時に没してしまい、やむなく家督を継いだ。
家臣は幼い当主を危惧して慶隆の母を斎藤家重臣の長井道利(ながい・みちとし)に再嫁させ後見人を頼んだ。
慶隆の不幸に不幸が重なる人生はここに始まる。

1564年、冷遇された竹中半兵衛が反乱しわずか16人で斎藤家の居城・稲葉山城を奪った。
たまたま八幡城を出ていた慶隆が戦闘を避け避難すると、その隙に従兄の遠藤胤俊(たねとし)が八幡城を奪い、慶隆の暗殺を狙った。
長井道利の援軍が駆けつけると遠藤胤俊は和睦を申し入れ八幡城を返還した。

1567年、斎藤家が織田信長によって滅ぼされ長井道利も戦死した。
その機に乗じ反乱が起こったが、二度目となる慶隆はそれを察知し速やかに鎮圧した。
信長に降り本領を安堵され、東美濃を統率する森可成(もり・よしなり)の下に付けられるが、1570年9月に可成が戦死。
次いで坂井政尚(さかい・まさひさ)の下に入るが彼もまた11月に戦死した。共闘していた従兄の遠藤胤俊も戦死し、手勢のほとんどを失った慶隆は、わずか1人の供を連れ八幡城に逃げ込んだという。

1573年、武田家との内通を疑われ織田軍に城を囲まれた。慶隆はすぐに降伏したが、(信長にしては)奇跡的に許され処罰されなかった。
以降は長篠の戦い、越前一向一揆との戦い、天目山の戦いに従軍し戦功を立てたが1582年、信長が本能寺の変で討たれてしまう。
美濃の国人衆はほとんどが羽柴秀吉に付いたが、慶隆は信長の三男・織田信孝(のぶたか)に仕えた。
秀吉と信孝・柴田勝家が交戦状態になると遠藤家は美濃で孤立し、かつて与力に付けられた森可成の子・森長可(ながよし)らに攻められた。
慶隆は立花山に籠ったが補給線を断たれてしまい、兵糧が尽き毛皮をあぶって食べるほどの窮地に立たされ、餓死するくらいならと玉砕を選ぼうとした寸前、信孝・柴田勝家が敗北したという知らせが入り、秀吉に降伏した。

1584年、小牧・長久手の戦いでは森長可の麾下で戦うが、徳川家康の巧みな用兵により長可は戦死。
慶隆は命からがら逃げ出したものの、彼を逃がすために多くの重臣が討ち死にした。
紀州征伐、飛騨征伐、九州征伐では活躍したものの1588年、今さら立花山の戦いで秀吉に反抗したことを咎められ、減封された。
だが秀吉は代わりの土地を与えるのを忘れてしまい、慶隆はやむなく町人の家を間借りして急場をしのぎ、太閤検地のためたまたま付近を訪れた代官に頼み込み、ようやく秀吉から代地を与えられたという。
その後は小田原征伐、東北征伐、文禄の役に従軍したが「両遠藤」として長らく共闘してきた遠藤胤基(たねもと 胤俊の弟)が病死。
その子の遠藤胤直(たねなお)が跡を継いだ。

1600年、関ヶ原の戦いでは旧主・信長の孫である織田秀信(ひでのぶ)に西軍に誘われた。
慶隆は東軍に、胤直は西軍に付くこととなり、慶隆は徳川家康に八幡城の奪還を願い出て、娘婿の金森可重(かなもり・よししげ)とともにかつての居城を攻めた。
いったんは落城させたものの外に出ていた城主の稲葉貞通(いなば・さだみち)が帰還すると奪い返された。
慶隆は稲葉貞通と和睦すると胤直も降伏させ、関ヶ原の本戦も東軍の勝利に終わると、稲葉貞通は豊後臼杵5万石に転封になり、念願かなって慶隆は八幡城主に返り咲いた。

美濃郡上藩が作られ初代藩主となるとようやくの安寧を得たかに見えたが1615年、嫡子が病死。
しかしそれが最後の不幸で、参勤交代に際し鉄砲5挺の携行を特例で認められるなど徳川幕府からの信頼厚く、1632年に83歳で没した。
また郡上八幡で有名な「郡上おどり」は慶隆が士農工商の融和を図るため、慶隆が奨励したのが始まりとも言われる。

遠藤家は家督争いにより4代目、5代目が暗殺され無嗣改易となったが、藩祖・慶隆の名を惜しんだ徳川綱吉の命で義妹(側室の妹)の子をいったん遠藤家の遠縁の養子に出した上で跡を継がせ、血筋は途絶えたものの遠藤家の名は残った。

父の死を皮切りに反乱2度、居城の陥落3度、主家の滅亡3度、主将の戦死3度、血縁者はたいていが若くして没し、言いがかりで改易されて代替地を忘れられるという前代未聞の冷遇と、不幸に不幸を重ねながらもしぶとく藩祖に上り詰めた、慶隆の不屈の闘志はもっと知られるべきである。

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