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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

戦国列伝―尼子経久  太っ腹の謀聖



尼子経久(あまご・つねひさ)
出雲の人(1458~1541)

北条早雲や斎藤道三(さいとう・どうさん)に並ぶ下克上の代名詞的存在。毛利元就や宇喜多直家(うきた・なおいえ)とともに「中国三大謀将」に数えられ「謀聖」の異名でも知られる。


出雲の守護代・尼子家の嫡子として生まれる。17歳の時、出雲の他3ヶ国の守護を務める京極政経(きょうごく・まさつね)のもとへ送られ、5年間を京で過ごした。(経久の経も京極政経からの一字拝領)
人質生活を終え1478年までに家督を譲られた。
当主になると次第に京極家から離れ、出雲の国人衆との結びつきを強め、幕府からの命令を無視するようになったため1484年、居城を包囲され守護代の職を剥奪された。

1500年、京極政経がお家騒動に敗れて経久のもとへ落ち延びてくると関係は修復され、守護代にも返り咲いた。
1508年に政経が亡くなるとその息子の後見を任されたが、ほどなくして息子が行方不明となり、経久が実質的に出雲を治めるようになった。

経久は中国地方に大勢力を築く大内家に接近する一方で、隣国の大名とも積極的に交流し、ある時は大内家と戦い、またある時は大内家を救援した。
1521年からは石見や安芸、さらには伯耆や備後へも侵攻する。
安芸の大内家の拠点を毛利元就に攻め落とさせ、伯耆には自ら兵を率いて守護の山名澄之(やまな・すみゆき)を敗走させた。
だが同年、安芸武田家が大内家に敗北し、毛利家も大内家に鞍替え、次いで山名家も反尼子に加わると形勢は逆転し、経久も大内家の陶興房(すえ・おきふさ 陶晴賢の父)に敗れて備後の支配権を失った。
さらに石見の支配も崩れると経久の三男・塩冶興久(えんや・おきひさ)が反旗を翻した。塩冶興久は多くの国人衆や隣国の大名を味方につけていたが、肝心の大内家は消極的ながら経久への支持を表明。1534年には鎮圧され、興久は自害した。

1537年、経久は家督を孫の尼子晴久(あまご・はるひさ)に譲る。
大内家は九州へ勢力を伸ばし大友家と交戦していたため、経久はその隙に尼子晴久を東へ進撃させた。
播磨守護の赤松政祐(あかまつ・まさすけ)を破り美作、備前へと侵攻。尼子晴久は上洛の機会をうかがったが、大友家が大内家と和睦してしまい、大内軍が攻め込んできたためやむなく撤退した。
これにより大内家との交渉は完全に決裂し1540年、尼子晴久は大内方の毛利家を討つため3万の連合軍を催した。
しかし大内家の陶晴賢(すえ・はるかた)率いる2万の軍に敗れ、安芸の基盤を失った。

翌年、経久が死去。享年84歳。

謀略や巧みな外交戦術で勢力拡大し、最大で11ヶ国にまで支配域を広げ、尼子家を中国地方屈指の大名に育て上げ、最盛期を築いた。
下克上や謀将の代名詞とされるが、性格はきわめて家臣思いかつ無私無欲の人で、家臣が経久の私物を褒めると喜んですぐに与えてしまうため、遠慮した家臣はなかなか褒められなくなった。
ある人が庭の松の木ならば大丈夫だろうと褒めると、経久は松の木を掘り返して与えようとした。必死に断ったが結局、薪にして与えてしまった。
また着ている物も構わず与えてしまうため、経久自身は冬でも薄衣一枚で過ごしていたという。

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