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夢想大蛇

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戦国列伝―小早川隆景  日本の西は隆景に

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戦国列伝―小早川隆景  日本の西は隆景に



小早川隆景(こばやかわ・たかかげ)
安芸の人(1533~1597)

毛利元就の三男。
1541年、後継者のいない小早川家に請われ養嗣子となった。
その後、小早川本家の当主が重病を患うと、主家の大内義隆(おおうち・よしたか)は元就と共謀し、本家当主を隠居させ隆景に家督を継がせた。
兄の吉川元春(きっかわ・もとはる)も吉川家を乗っ取っており、吉川・小早川の「両川体制」はその後、毛利家の両輪として活躍していく。

隆景は屈強で知られる小早川水軍を率い数々の戦で武功を立て、また水路を活用した情報収集や外交・調略戦を担当した。
1571年、元就が没すると、すでに長男の毛利隆元(もうり・たかもと)も没していたため跡を継いだ隆元の子・毛利輝元(てるもと)を隆景とともに補佐した。
この頃、中央では織田信長が台頭し、その支援を受けて隣国の浦上家や三村家が盛んに毛利領に侵攻した。
信長に追放された将軍・足利義昭(あしかが・よしあき)が毛利家に庇護を求めると織田家との対立は決定的となり、元春が山陰、隆景が山陽方面を担当し織田軍と激しく争った。

1576年、石山本願寺を救援し、村上水軍とともに九鬼嘉隆(くき・よしたか)率いる織田水軍を撃破した。
だが2年後、九鬼嘉隆は自ら考案した鉄甲船で反撃に乗り出し、数で圧倒する小早川・村上水軍を大破した。
これにより制海権を失い、また上杉謙信の急死も重なり、いわゆる「第二次信長包囲網」は崩れた。
圧倒的な兵力を誇る織田軍に押され、備前の宇喜多家や伯耆の南条家らも織田家に寝返り、大友宗麟も再び侵攻を開始すると毛利家は劣勢に立たされた。
1582年、清水宗治(しみず・むねはる)の籠る高松城が羽柴秀吉に水攻めされると、隆景・元春は救援に赴いたが、水に進路を阻まれ立ち往生し、秀吉もまた毛利軍の主力と激突することを恐れ戦線は膠着した。
そのさなか、信長が本能寺で討たれると、急報を受けた秀吉は信長の死を伏せたまま、水面下で進んでいた毛利家との和睦交渉を急いだ。
毛利家の安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)に「毛利家の家臣のほとんどは調略されている」とささやき疑心暗鬼にさせると、高松城の解放と備中からの撤退と引き換えに清水宗治を切腹させ、秀吉軍は兵を引き上げた。
その際、隆景と元春は信長の死に気づいていたが、秀吉との決戦に踏み切ってもし敗れれば毛利家は滅亡すると考え、無理な戦を控えたとされる。

その後、元春は秀吉に仕えることを嫌い隠居したが、隆景は毛利家を代表し積極的に秀吉のもとで戦った。
秀吉は「日本の東は徳川家康に、西は隆景に任せれば安泰だ」と語るほど厚く信頼し、四国攻めで大功を立てると伊予一国を与えられた。だが隆景はまず毛利家に伊予を与えさせ、改めて毛利家から受領する体裁を取り、あくまで毛利家の家臣として振る舞った。
隆景は居城を移さず備後三原城から伊予の統治をしたが、ルイス・フロイスに「日本では珍しく伊予では騒動も反乱もない」と称賛された。

1586年からの九州征伐にも出陣し、筑前・筑後と肥前の一部に37万石を与えられた。
しかし元春とその嫡子・吉川元長(もとなが)が相次いで没していたため、九州に入れば毛利家を支える者がいなくなるからと断りを入れた。
秀吉はそれならばと隆景に与える領地を豊臣家のものとし、隆景に代官をするよう命じ、断りきれず九州入りした。

1592年、文禄の役でも毛利家を代表し戦った。
1594年、秀吉は養子の羽柴秀俊(はしば・ひでとし)を毛利家の養嗣子として送り込もうとした。
だが隆景は秀俊の才を危ぶみ、また毛利家が乗っ取られることを恐れたため、実子のいない自分が養子として迎え入れると申し出た。
隆景はかつて大内義隆と衆道の関係にあったほどの美男子ながら、なぜか妻妾を一切近づけず、子供をもうけなかったという。

1595年、隆景は徳川家康、前田利家らそうそうたる顔ぶれと並び五大老に任じられた。
家督を秀俊に譲り隠居し、1597年に没した。
その際には毛利輝元に「あなたには天下を治める器量がないから、天下が乱れても欲を出してはならない。欲を出せば国を失うだろう」と、元春の子・吉川広家(きっかわ・ひろいえ)には「本能寺の変のおり、秀吉との和睦を守ったから毛利家の今があるのだ」と忠告したとされる。
親交のあった黒田官兵衛は隆景に「あなたは切れ者だから物事を即断即決しすぎて後悔することが多いだろう。私はあなたほど切れないから十分に時間をかけて考えるので後悔することは少ない」と言われたことを思い出し「日本から賢人がいなくなった」と嘆いたという。

秀俊は後に小早川秀秋(こばやかわ・ひであき)と改名し、関ヶ原の戦いで東軍に寝返り家康勝利の決定打となるも数年後に病死した。
輝元は西軍の総大将として担ぎ出されたため改易になりかけたが、吉川広家が関ヶ原本戦で毛利家の参戦を食い止めた功績により、安芸一国への減封で済んだ。

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