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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―魏・陳羣  これぞ長者の振る舞い


 
陳羣(ちんぐん)字は長文(ちょうぶん)
豫州頴川郡許昌の人(??~236)
 
魏の大政治家。
祖父、父、叔父はあわせて「三君」と呼ばれるほど名声が高かった。
陳羣は幼い頃から将来を見込まれ、祖父には「一族を盛んにするのはこの子だ」と期待され、傲岸不遜で知られる孔融(こうゆう)にも才を認められた。

はじめは劉備に仕える。
194年、陶謙(とうけん)が急死し、劉備が後任の徐州刺史に推されると、陳羣は「南に袁術(えんじゅつ)、西に呂布がいて徐州を狙っている」と反対したが、劉備は請われるままに徐州刺史となった。
はたして陳羣の危惧どおり、袁術との戦いのさなかに呂布は裏切り、留守の徐州を奪った。
劉備は呂布の客将となったが、間もなく曹操を頼って落ち延びた。陳羣はそれには従わず徐州に留まった。

198年、曹操が呂布を討ち取ると、陳羣を召し出した。同時期に王模(おうも)と周逵(しゅうき)という者も登用されたが、陳羣は「二人は道徳に欠け、いつか災いをなすでしょう」と進言した。
曹操は聞き入れなかったが、のちに二人とも罪を犯し処刑されることとなり、自身の不明を詫びたという。
陳羣はやはり素行が悪かった郭嘉(かくか)もたびたび弾劾したが、曹操は郭嘉の才知を惜しみ取り上げなかった。しかし陳羣の公明正大さも評価し、二人を同様に重用した。
陳羣は人を見るにあたってその名誉と道義を重んじ、自身の感情は交えず、優れた人物鑑定で陳矯(ちんきょう)、戴乾(たいけん)ら多くの人材を見出した。
219年、魏諷(ぎふう)が大規模な反乱を起こし、名門の子弟の多くがそれに関わっていたとして処刑された。
劉廙(りゅうよく)も弟が加担していたかどで処刑されそうになったが、陳羣が「劉廙は有能な人物であり、弟の罪を及ぼして処刑しては国家の損失である」と弁護したため、罪を減じられた。
劉廙は礼を言ったが、陳羣は「私は国家のために進言しただけで、罪を減じたのは君主の意向だ」と取り合わなかった。

曹操が肉刑(身体に危害を加える刑罰)の復活を議論したとき、かつて陳羣の父が肉刑について意見を述べていたことを思い出し、陳羣に意見を求めた。
陳羣は「現在は重罪には死刑が相当と決まっており、これは多くの人材を失うことにつながっています。死刑の下に肉刑を設けることで、人材を減らさずに済むでしょう」と賛成したが、王朗(おうろう)らの反対多数で見送りとなった。

220年、曹丕が帝位につくと、学友として友人扱いされていた陳羣はますます重用された。
九品官人法を制定したが、これは王朝が変わっても、改良を重ねて数百年にわたり用いられ、日本にも伝えられ聖徳太子の冠位十二階の参考とされるほど卓越した官吏登用法である。
軍事においても呉との戦いでは曹丕に節(司令官の代理として任じられた証)を与えられ、水軍を統率した。

226年、曹丕が急死すると、司馬懿、曹真(そうしん)らとともに後事を託された。
陳羣の発言は常に重きを置かれ、曹真が遠征するにも陳羣の賛成がなければ行われず、遠征しても陳羣が撤退を進言すればそのとおりにされた。
曹丕の跡を継いだ曹叡(そうえい)の信頼も厚く、呉質(ごしつ)の讒言で一時、失脚することもあったが、信頼は揺るがなかった。
曹叡は宮殿の造営に熱心で、臣下のほぼ全員が反対するも、聞く耳を持たなかったが、陳羣の諫言だけは届き、計画を縮小することもあった。

236年、陳羣は死去した。子の陳泰(ちんたい)もまた三国後期を代表する名将だったが、父の業績には及ばず、その伝は陳羣の伝に付記されるに留められている。
陳羣は数々の上奏をし、多くの法の制定に関わったが、上奏した後には草稿を破棄し、法が制定されても自身の功を語らなかったため、高位にありながら何もしていないと批判されることがあった。
その死後に『名臣奏議』が編纂され、陳羣の上奏の数々が明らかになると、人々は「これぞ長者の振る舞いだ」と感嘆したという。

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