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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―魏・陳矯  ミスター正論



陳矯(ちんきょう)字は季弼(きひつ)
広陵郡東陽県の人(??~236)

~経歴~
魏の臣。もとは劉矯(りゅうきょう)と名乗ったが事情により母方の姓に改めた。

戦乱(おそらく曹操の徐州大虐殺)を避けて江東に避難した。
孫策や袁術(えんじゅつ)に招かれたが応じず、落ち着くと故郷に帰り太守の陳登(ちんとう)に仕えた。
陳登は非常に傲慢な人物だったが、陳矯とはうまが合い友人同様の付き合いをした。
赤壁の戦い後、勢いに乗る孫権軍が攻め寄せたとき、陳矯は都に向かい曹操に援軍を求めた。その弁舌に感心した曹操は援軍に応じ、そのまま陳矯を側に置こうとした。だが陳矯は、陳登が窮地にあるから戻らなければならないと断った。
そして陳登の巧みな指揮と、援軍によって孫権軍は撃退された。

やがて(陳登が没すると?)陳矯は曹操に仕え各地の太守や重職を歴任した。
関羽が北上した際、曹操は自ら軍を率いて事態の急変に備えたが、関羽が戦死すると間もなく、都に戻る途上で曹操も没した。
陳矯は魏王の座が空位になり、その隙に混乱が起きることを恐れ、勅命を待たずに後継者の曹丕に魏王になるよう求めた。
諸将は反対したが曹丕はそれを大いに評価した。

陳矯は豪胆な性格で、些細なことでも諫言をはばからなかった。
あるとき二代皇帝・曹叡(そうえい)が直々に文書を調べようとすると、陳矯はそれを押しとどめ、「皇帝には皇帝の、臣下には臣下の職分があります。文書を調べたければ私に申し付け下さい。それができないならば今すぐ免職してください」と説くほどだった。
文官の最高位である司徒にまで上り、237年に没した。
その子孫も代々重職につき、西晋、東晋を通して貴族として続いた。

「演義」では曹仁の参謀として周瑜と戦い、毒矢を浴びせて周瑜の若死にするきっかけを作った。
その一方で劉備に捕らわれて印綬を奪われ、印綬を利用して城を乗っ取られそれっきり登場しないという不遇な扱いを受けている。
そのため各種ゲーム等では「倒すと印綬を落とす中ボス」程度の扱いしかされないことが多い。

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