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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―魏・陳泰  大将とはかくあるべし



陳泰(ちんたい)字は玄伯(げんはく)
父と同じ豫州頴川郡許昌の人と思われる(??~260)

~経歴~
魏後期の名将。
父は大政治家の陳羣(ちんぐん)、母は名軍師・荀彧(じゅんいく)の娘。

司馬懿の学友だった父と同じく、司馬懿の子・司馬師(しばし)、司馬昭(しばしょう)兄弟と親しく付き合った。
その才は若くして認められ、武陔(ぶがい)は「公明正大で天下の教化を行う点では陳羣が勝るが、統率力の高さと功績を打ち立てることでは陳泰が勝る」と評した。

并州刺史となり異民族の鎮撫に当たるが、恩愛をもって臨んだため、異民族からも畏敬の念を払われた。
都の高官たちは陳泰にワイロを贈り、異民族の奴隷を買い求めようとしたが、陳泰はそのワイロの入った袋を、封も開けずに壁に吊るして目もくれず、のちに都に召還されたとき、高官たちに突き返したという。

250年頃、雍州刺史となり蜀の姜維と戦う。
姜維は麹山に城を築き、各地に攻撃を仕掛けていたが、陳泰は漢中から麹山までの道が険しく、労役にかり出されていた羌族の不満も積もっていることを見抜き、兵糧攻めを行った。同時に郭淮(かくわい)を背後を回すと姜維は撤退し、麹山は魏の手に落ちた。

郭淮が亡くなると陳泰は蜀に対する全権を任され、雍・涼州の軍事を統括することとなる。
姜維は魏から寝返った夏侯覇(かこうは)とともに三方から攻め寄せた。
雍州刺史の王経(おうけい)は兵を三つに分けて迎撃する案を出したが、陳泰はこれは魏軍の兵力を分散させる策であると考え、王経を狄道に先行させて蜀軍の目を引きつけ、自身は背後に回る策を立てた。
だが王経は蜀軍と出くわして混乱し、姜維に挟撃されて大敗し狄道城に逃げこんだ。
陳泰は王経が集合地点に現れないことから異変を察知すると、予定を変更して隴西に進んだ。艾(とうがい)らは「蜀軍は大勝して士気が上がっています。戦うのは避けてこのまま隴西を抑えましょう」と進言したが、陳泰は「侵略者も包囲された味方も放っておくことはできない。姜維が勝ちに乗じて東進すれば恐ろしいが、城を包囲したまま動こうとしない。士気は下がり兵糧も欠乏してくる頃合いだ。今こそ叩くべきである」と言い、姜維の軍を襲った。
姜維は魏軍の速攻に驚き、撤退した。救出された王経は「あと十日遅ければ狄道どころか雍州も落ちていたでしょう」と陳泰の判断を讃えた。
司馬昭も「諸葛亮も同じ策を考えていたが実行できなかった。まして姜維にできるわけがない。陳泰は城を失いかけながらも増援を求めず、簡潔に事態を処理した。大将とはかくあるべきだ」と絶賛した。

260年、魏の四代皇帝・曹髦(そうぼう)が殺された後、陳泰は抗議して出仕しなくなった。
司馬昭が陳泰の叔父・荀顗(じゅんがい)を説得に差し向けると、陳泰は「私と叔父上は常々、比べられていますが、亡き帝に対しての忠誠では私のほうが勝るでしょう」とだけ返した。
このままでは罰せられると、周囲の者に強いられて陳泰は涙を流しながら参内した。
親友でもある司馬昭は陳泰と二人きりになると、「私はどうすれば主殺しの汚名を晴らすことができるのか」と尋ねた。陳泰は「殺害を建議した賈充(かじゅう)を斬り天下に謝罪するしかありません」と答えたが、腹心であり軍師格でもある賈充を殺すことはできないと司馬昭は渋り、別の手段はないかと食い下がった。
陳泰は「私はこれを言うためだけに来たのです。別の手段などありません」と断じ、司馬昭はそれ以上、何も言えなかった。
ただしこの逸話での陳泰の官位は事実と異なっており、裴松之は信用できない逸話だとしている。

同年、陳泰は没した。
三国志を著した陳寿は「陳泰は広く世を救い、きわめてつつましく潔い人柄であり、まことによく父業を受け継いだ」と記している。

なおこの画像は誰かを想定して描かれたものではなく、管理人が勝手に陳泰として採用したものである。

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