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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―魏・辛毗  収拾役


 
辛毗(しんぴ)字は佐治(さち)
豫州頴川郡陽翟県の人(??~??)

~経歴~
魏の重臣。才女・辛憲英(しんけんえい)の父。

若い頃から陳羣(ちんぐん)、杜襲(としゅう)、趙儼(ちょうげん)ら後に魏の柱石となる俊英らと並び称された。
はじめは兄・辛評(しんぴょう)とともに袁紹に仕え、兄弟そろって重用された。

官渡の戦いで敗れた袁紹が失意のうちに亡くなると、その長子である袁譚(えんたん)に仕えた。
袁譚は弟の袁尚(えんしょう)との後継者争いに敗れ、参謀・郭図(かくと)の進言で曹操に援軍を請うため辛毗を派遣した。
曹操はかつて辛毗の評判を聞き招こうとしたこともあったため、喜んでそれに応じた。
ところが数日もすると心変わりし、援軍を出さず袁家の兄弟が共倒れするのを待とうと考えた。
辛毗は宴席での曹操の様子からそれを察知すると、直談判で曹操を説き伏せ、援軍を承諾させた。
そのまま曹操軍に同行して袁尚と戦うが、兄・辛評の家族(もしくは辛評本人か)を袁尚の重臣・審配(しんぱい)に「曹操を招き袁家を滅ぼした裏切り者の一族」として処刑されてしまった。
曹操は審配を捕らえると、剛直な性格を気に入り取り立てようとしたが、辛毗が涙を流して処刑を嘆願し、審配にも降伏の意思がなかったため処刑させた。

その後は魏の重臣として活躍する。
漢中の攻略後、下弁を攻める曹洪(そうこう)の副将としてつけられた。曹操はかねてから曹洪の金にがめつい性格がいつか難を招くと危ぶんでおり、辛毗に対して留意するよう言い含めたという。
曹丕とも親しく、彼が太子に任じられた時には喜びのあまり抱きつかれたほどで、帝位禅譲にも貢献した。
曹丕も辛毗の言はよく聞き入れ、政策や軍事はもちろん自身の行いを改めることがたびたびあった。

曹叡(そうえい)の代になると、その側近である劉放(りゅうほう)、孫資(そんし)らが専権を振るうようになった。
多くの臣下は彼らによしみを通じて保身を図ったが、辛毗は息子に「このままでは立場が危うい」と言われても全く取り入ろうとはしなかった。
しかし辛毗の言は常に重きを置かれ、その諫言はよく用いられた。

234年、諸葛亮が五丈原に布陣した。迎え撃つ司馬懿は持久戦を採っていたが、消極的な作戦に業を煮やした諸将は、勝手に軍を動かそうとした。
すると曹叡は(おそらく司馬懿の要請で)辛毗を派遣し、魏軍を監督させた。諸将も辛毗には逆らえず、すぐに落ち着きを取り戻した。
やがて諸葛亮は陣中に没し蜀軍は撤退した。

「演義」では辛毘(読みは同じ)という字で登場し、史実とほぼ同じ役どころを務める。
五丈原の戦いでも諸葛亮の挑発に乗りかけた魏軍の前に、80歳すぎの老人ながら一人で立ちふさがり、進軍を止めさせた。
諸葛亮はその様子を聞き「それは辛毘だ。彼がいるのならばもう挑発は通用しない」と嘆くという、すばらしい脚色がされている。

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