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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―魏・賈充  司馬一族の懐刀


 
賈充(かじゅう)字は公閭(こうりょ)
出身地不明(217~282)
 
魏から西晋にかけての謀将。魏の重臣・賈逵(かき)の子。

父が亡くなると12歳で跡を継いだ。
間もなく政権を握った曹爽(そうそう)に取り立てられたが、司馬懿によって曹爽一派が処刑されたため、賈充は失脚した。
しかしすぐに才を見出され、以降は司馬師(しばし)・司馬昭(しばしょう)ら司馬一族の軍師格として活躍することとなる。

255年、毌丘倹(かんきゅうけん)・文欽(ぶんきん)が反乱し、司馬師自ら討伐に赴いた際、勝利を収めたものの、文欽の子・文鴦(ぶんおう)の猛反撃にあい、司馬師は驚きのあまり前年に患った目玉が飛び出してしまい、人事不省に陥った。帰還の途上に司馬師は亡くなり、以降は賈充が全軍の指揮をとった。
257年に諸葛誕(しょかつたん)に反乱の噂が立ったおり、賈充が尋問し、叛意ありと報告し的中させるなど、司馬一族からの信頼によく応えた。

四代皇帝・曹髦(そうぼう)が実権を奪い返すため挙兵すると、司馬昭はすぐにそれを察知し賈充に鎮圧を命じた。
賈充と曹髦は対峙したが、皇帝を傷つける罪を恐れ、誰も立ち向かおうとはしなかった。
すると賈充は「誰も罪に問われることはない」と保証し、成済(せいさい)に命じて曹髦を殺させた。
だが成済は皇帝殺害の罪で処刑され、賈充はなんの罪にも問われなかった。
重臣で司馬昭の親友でもある陳泰(ちんたい)は賈充の処刑を求めたが、司馬昭は「賈充を失うことはできない」と拒否した。

司馬昭が没し、跡を継いだ司馬炎(しばえん)は五代皇帝・曹奐(そうかん)に帝位の禅譲を強いて、晋を建国した。賈充はその中心人物として貢献し、その功績は筆頭に挙げられた。重職を歴任し、律令の制定にも携わり、遠征軍の指揮も行った。
だが戦は不得手だったようで、涼州で起こった禿髪樹機能(とくはつじゅきのう)の乱の鎮圧には失敗し、また280年、ついに呉征伐が始まり総指揮官を任されたが、自身は進軍に反対し続け、司馬炎にたしなめられるほどだった。
杜預(どよ)が瞬く間に荊州を落とし、王濬(おうしゅん)らが呉の首都に迫っても撤退を主張したというから、その戦嫌いは筋金入りである。

しかし戦に反対しても賈充の地位が揺らぐことはなく、戦後にはむしろ杜預らは中華統一を成し遂げたことから自分たち軍人の立場(もっとも杜預は自身は文官だと言い張り戦勝の褒美も断っているのだが)が危うくなることを恐れ、賈充によしみを通じ、保身を図ったという。

賈充は娘の賈南風(かなんぷう)を司馬炎の太子に嫁がせ、名実ともに政権の中枢に座った。
しかしその死後、賈南風は権力闘争に明け暮れて国力を著しく衰退させ、西晋王朝の滅亡を招き、賈一族も政敵に敗れて皆殺しとなった。
賈南風の母である郭氏(かくし)は非常に嫉妬深い性格で、側室やその男子を精神的に追い詰めてことごとく死に追いやり、自身の親族に家を継がせている悪女であり、賈南風は母の血を色濃く継いだのだろう。

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