忍者ブログ

夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―魏・荀彧  王佐の才



荀彧(じゅんいく)字は文若(ぶんじゃく)
潁川郡穎陰の人(163~212)

~経歴~
曹操の軍師。
祖父の荀淑(じゅんしゅく)は「神君」と呼ばれるほど清廉潔白かつ優れた人物で、その八人の子もみな優れ「八龍」と称された。
従兄の荀攸(じゅんゆう)、叔父の荀爽(じゅんそう 八龍の一人)、弟の荀諶(じゅんしん)らも荀彧と同時代に活躍した俊英である。

4歳にして政略結婚に使われそうになるほど聡明で、「王佐の才(王を補佐できるほどの才能)がある」と言われた。
また三国志中でも一、二を争う美男子で、毒舌家の禰衡(でいこう)でさえ、そのイケメンぶりは認めている。

189年、都に上るが、董卓の専横を危ぶみ、すぐに官を棄てて逃亡した。ちなみにこの時、荀攸は董卓暗殺を図るが、計画が露見して投獄されている。
戦乱を予感し、郷里の者に移住するよう促したが、古老たちはしぶったため、同郷の冀州牧・韓馥(かんふく)の招きを受け一族だけをつれて避難した。間もなく郷里は李傕(りかく)らによって略奪された。

荀彧がたどり着いたとき、すでに韓馥は袁紹に冀州を明け渡していた。先に袁紹に仕えていた弟の荀彧や、同郷の郭図(かくと)、辛評(しんぴょう)らの薦めもありいったんは袁紹の幕下に入るが、「大業を成せる人物ではない」と見抜き、曹操のもとへ走った。
荀彧を迎えた曹操は「我が張子房が来た」と喜んだ。
張子房(ちょうしぼう)とは、前漢を築いた劉邦(りゅうほう)の軍師・張良(ちょうりょう)のことで、曹操は自身を劉邦になぞらえ、「私に覇業をなさせる男が来た」という意味である。
曹操が早速、勢力を拡大していた董卓にどう対抗すべきかと尋ねると、荀彧は「待っていれば自滅するでしょう」と予言し、はたしてその通りになった。荀は以降、常に曹操の側に仕えるようになった。

194年、曹操が父の仇討ちとして大軍を催し徐州の陶謙(とうけん)を攻めたとき、呂布、陳宮(ちんきゅう)、張邈(ちょうばく)らが反乱を起こし兗州を乗っ取った。
留守を任されていた荀のもとに張邈は「呂布が援軍に来た」と開城を求めたが、荀彧は反乱を見抜き門を閉ざした。だが呂布らに従う兵は多く、荀彧に残されていたのはわずかな兵と、たった3つの城だけだった。
荀彧は夏侯惇と合流すると反撃に転じさせ、さらに隣国の刺史・郭貢(かくこう)を説得して中立に置き、程昱(ていいく)を派遣して三城の結束を固めた。
一時は夏侯惇が捕虜になるほどの苦境に陥ったが、曹操の軍が帰還するまでなんとか守り抜いた。

曹操は陶謙の病死を聞くと再び徐州攻めを考えたが、荀彧は兗州を取り戻すべきと主張し、さらに折からの飢饉に対して屯田策を取り入れさせた。兵糧を確保した曹操は、呂布を破り兗州を取り戻した。
董卓の死後、李傕らに牛耳られていた長安から、献帝(けんてい 後漢最後の皇帝)が脱出すると、荀彧は献帝を迎え入れて李傕を討伐すべきだと進言した。曹操はすぐに兵を起こし、献帝を確保すると李傕らを一掃した。これにより曹操は「献帝を守護する」という大義名分を獲得したのである。ちなみにこのとき、袁紹、劉表(りゅうひょう)らも同じ献策をされたが却下している。

曹操の信頼は絶大なものとなり、軍事においても政治においても常に荀彧の意見を求めた。
あるとき「君の代わりに私のために策を立てられるのは誰か」と聞かれると、荀彧は荀攸と鍾繇(しょうよう)の名を挙げた。荀彧が多忙なときには、代わりにその二人を用いるようになった。
荀彧は清流派の名士としての人脈を活かし、戯志才(ぎしさい)、郭嘉(かくか)、陳羣(ちんぐん)、杜畿(とき)、華歆(かきん)、王朗(おうろう)、杜襲(としゅう)、郗慮(ちりょ)、司馬朗(しばろう)、司馬懿ら多くの人材を抜擢した。その中から大臣に昇った者は十指に余り、大成しなかったのは若くして戦死した者くらいであった。
その人物鑑定眼は味方のみならず敵に対しても的確で、袁紹との決戦を前に袁紹陣営の幕僚の欠点をあげつらねたが、後にその全てが的中した。

官渡の戦いでは荀彧は都に残り、出征した曹操の代わりに政務を取り仕切った。
四方に敵を抱えた曹操に対し、全戦力を向けられる袁紹の兵力は曹操軍の数十倍とも言われ、さすがの曹操も何度となく退却を考えたが、そのたびに荀は励まし、戦いを続けさせた。
やがて曹操は烏巣に敵の兵糧が集められていることを見破り、奇襲を仕掛け逆転勝利を収めた。
だが北方の袁紹の領土は広大で、その平定は誰もが困難だと唱え、曹操も先に荊州の劉表を攻めるべきかと考えた。
しかし荀彧は「今のうちに袁紹を徹底的に叩いておかなければ勢力を盛り返すでしょう」と進言し、曹操は北征を決意した。
道中は困難をきわめたが、袁紹が病死すると後継者争いが起こり、数年のうちに袁紹勢力は一掃された。
203年、荀彧は侯に封ぜられた。はじめは従軍していないことを理由に断ったが、曹操は荀彧の功績は戦場での働きに勝ると説得したため、拝受した。曹操は自分の娘を荀彧の子に嫁がせ、手厚い褒美を与えたが、荀彧は残らず縁者に分け与えたため、財産として少しも残らず、またいくら勧められても三公の位だけは受けようとしなかった。

しかし212年、曹操を魏公、さらには魏王としようとする動きが持ち上がると、荀彧は一人反対した。
曹操が荀彧に注いでいた絶大な信頼はそれにより薄れたと言われ、荀彧は失意からか50歳で急死した。
その死には謎が多く、死の直前、曹操から空の食器を贈られ「私は用済みということか」と嘆いて自殺した、という逸話や、朝廷への忠誠心を買われ、曹操暗殺計画に誘われたが、それに返答も告発もせず黙秘していたことをとがめられた、など様々な説がまことしやかにささやかれている。

荀彧の死の翌年、曹操は魏公、そして魏王となり、8年後には跡を継いだ曹丕は禅譲を強いて皇帝となった。
意外なことに(これも曹操に疎まれていた証拠とされる)荀彧の伝は単独で立てられていないが、様々な人物の伝に登場するため、その事績は非常に多く残されている。

清廉潔白にして智謀に優れた荀彧は、同時代の人はもちろん、後世の人々にも高く評価された。
曹操は「私の智謀は荀彧の足元にも及ばない」と言い、毒舌の孔融(こうゆう)ですら「荀彧の出身地からは多くの逸材が出ているが、彼に匹敵する人物はいない」と評し、司馬懿は「いろいろな人物を見聞きし、また書物をひもときもしたが、荀彧ほどの人物はここ百数十年に存在しない」と述べた。
歴史家からも絶賛され、裴松之は「彼がいたからこそ、その死後も漢王朝は滅びることなく魏に禅譲でき、血筋が絶えなかったのだ」と記し、『後漢書』を著した范曄(はんよう)は、『三国志』に伝があるのを承知で、『後漢書』にも荀彧の伝を立てる破格の扱いをした。

それにしても「王佐の才」と讃えられた荀彧が、その王位のことで不遇のうちに命を落とし、また後世の評価を得たのはなんとも皮肉なことである。

拍手[1回]

PR

コメント

プロフィール

HN:
小金沢
性別:
非公開

P R