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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―魏・石苞  御者から司徒へ大出世



石苞(せきほう)字は仲容(ちゅうよう)
冀州勃海郡南皮県の人(??~272)

魏の将。学問に長じ容貌も人並み優れていたが、なかなか出世できず若い頃は御者や鉄を売って生業を立てていた。
鄧艾とは同い年でともに御者の仕事を行ったといい、やがて名士(一説には司馬懿)の目にとまり、ようやく日の目を見るようになった。

はじめ仕えた司馬懿には重用されなかったが、子の司馬師・司馬師には才を見出され、252年の東興の戦いでは呉軍の丁奉に敗れ全軍が撤退する中、石苞だけが兵を失わずに引き上げたことを大いに評価された。
司馬昭が魏の実権を握ると都督に取り立てられ、かつて司馬懿が重用した州泰(しゅうたい)ら刺史を逆に監督下に置くようになった。

257年、諸葛誕の反乱では監軍として采配を振るい、諸葛誕の援軍に現れた呉軍を幾度となく撃破するなど活躍した。
259年には荊州諸軍事に移った王基(おうき)の後を受け揚州諸軍事となり、対呉方面の最高指揮官となった。
司馬昭の信頼は厚く、彼の前で魏帝の曹髦(そうぼう)を賞賛しても咎められず、司馬昭が265年に死去すると、帝位につかないまま没したのを嘆き悲しみ、その直後には陳騫(ちんけん)とともに魏帝の曹奐(そうかん)へ暗に司馬氏への禅譲を迫ったという。

しかし出自の貧しい石苞は周囲から妬まれており、王琛(おうたん)は当時流行していた「大きな石が馬を踏み潰す」という童謡を石苞が司馬氏に反乱する兆候だと讒言した。
これを呉の丁奉が利用し離間策を仕掛けると、晋帝の司馬炎は疑心暗鬼となり石苞の子の石喬(せききょう)に出頭を命じたが、これを無視されたためついに268年、石苞は謀反人として任を解かれ都に召還された。
司馬炎の叔父に当たる司馬駿(しばしゅん)がその立場の危うさを石苞の側近に知らせたため、石苞は武装を解きおとなしく自宅謹慎した。
やがて羊祜(ようこ)ら重臣の弁護が功を奏し、司馬炎は疑いを捨て、石苞を司徒に昇進させた。
石苞は改めて謝罪するとともに、出頭に応じなかった石喬を勘当し、以後は元通り重用され、272年に没した。

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