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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―魏・盧毓  画餅も捨てたものではなし



盧毓(ろいく)字は子家(しか)
幽州涿郡涿県の人(183~257)

魏の臣。劉備の師として知られる盧植(ろしょく)の子。
10歳の時に父が没し、2人の兄も相次いで亡くなった。当時、故郷は袁紹と公孫瓚(こうそんさん)が激しく争い食料の調達もままならなかったが、盧毓は未亡人の兄嫁やその子らを養い、一家を支えた。
学問や品行に優れたため曹丕に召し出され、人物評価の大家であった崔琰(さいえん)にも推挙された。
ある時、本来は連座で死罪となるべき逃亡兵の妻が、まだ結婚して数日も経っていないのを気の毒に思い、盧毓は古典を引いて減刑を訴えた。曹操は理にかなった主張に感嘆したという。

曹丕の機嫌を損ねたため一時、閑職に追いやられたこともあったが、曹叡(そうえい)の代には再び重用された。
その頃、諸葛誕ら名士の子弟12人が「四聡八達」と称し名声を博していたが、曹叡は「名声など画餅(絵に描いた餅)のようなもので役に立たない」と人材登用にあたって名声を参考にしないよう詔勅を下した。
だが盧毓は「名声は特別な人材を招くには不十分でも、普通の人材を得るには役立ちます。普通の人材が学び、善行を重ね、はじめて有名になるのですから憎むべきではありません」と反論したという。

ある時、盧毓は無官だった管寧(かんねい)を推挙したが、やはり名声ばかり高い彼を嫌ったのか曹叡は次善の候補を尋ねた。盧毓はさらに韓曁(かんき)と常林(じょうりん)の名を挙げたので、曹叡は韓曁を起用した。
盧毓は人材登用にあたり人格や品行を重視し、才能は二の次としていた。「善行に役立てることができなければ才能など無意味だ」という考えに基づくもので「唯才」を掲げただ才能だけを重んじた曹操とは好対照である。(だがそれならなぜ品行方正とは言えない常林を推挙したのだろう)

曹芳(そうほう)の代になると、実権を握った曹爽(そうそう)は盧毓を煙たがり地方へいったん左遷したが、世論の反対に抗しきれず中央へ召し戻した。
その後、司馬懿が曹爽一派を粛清した時には盧毓が裁判を担当し、内通していた宦官を自白させ曹爽らを処刑させた。

255年、毌丘倹(かんきゅうけん)らが反乱を起こすと、出征した司馬師の留守をあずかり政務を取り仕切った。
翌年、老齢で重病にもかかったため官を辞そうとしたが司馬昭はそれを認めず、かえって昇進させた。

257年、75歳で死去した。父と比べればあまりにも無名だが、長きに渡り魏を支えた功臣である。

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