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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―魏・王朗  Mr.清廉潔白



王朗(おうろう)字は景興(けいこう)
徐州東海郡の人(?~228)
元の名は王厳(おうげん)とされる。

魏の臣。
若い頃に孝廉に推挙され都に招聘されたが出仕しなかった。だが徐州刺史の陶謙(とうけん)に招かれるとそれに仕えた。
193年、董卓の下で傀儡にされた献帝(けんてい)のもとへ使者として派遣され、会稽太守に任じられた。

196年、孫策が侵攻してくると配下の虞翻(ぐほん)は逃亡するよう進言したが、皇帝への忠誠心厚い王朗は、陛下に任された太守の任を放棄できないと、元の丹陽太守の周昕(しゅうきん)とともに迎撃に出た。
孫策は苦戦したが、叔父の孫静(そんせい)が密かに渡河し背後に回り、川の水を飲料水に使おうと煮沸させると、あらぬところから上った煙を攻撃の合図と勘違いした王朗軍は動揺し、その隙をつかれ周昕を討ち取られ大敗した。

結局、王朗は孫策に降伏した。孫策は教養豊かで謙虚な王朗を尊重したため関係は良好だったが、間もなく曹操の招聘を受けると王朗は一族を連れ都に上った。
長江や海を渡り数年がかりの旅となり、困窮した一行は日々の糧を得ることにさえ苦労したが、王朗は食料を奪うなどの同義にもとる行為を厳に禁じた。
孫策との関係は続き、旧知の者の保護を頼んだり、孫策の人物を曹操に問われると「野心深く優れた人材に恵まれ、地方の賊では終わらない」と答えたという。

曹操のもとでは主として政務にあたり、特に司法では法を守るだけではなく柔軟に用い、名声高かった鍾繇(しょうよう)にも匹敵すると賞賛された。
困窮をきわめた旅の経験からか節制を重んじ、曹操・曹丕・曹叡(そうえい)にそれを説いた記録も残る。
優れた人材を何人も推薦し、地位の低かった張登(ちょうとう)を抜擢させ、また223年には病気と称して地位を退き、後任に当時83歳の楊彪(ようひょう)を推挙した。曹丕は楊彪を登用するとともに王朗に復職するよう要請している。
また数々の経書に通じ多くの伝(注釈)を著し、曹芳(そうほう)の代には王朗の著書が官吏登用の受験科目として採用された。
官渡の戦いに際し発した檄文を曹操に高評価された陳琳(ちんりん)は、呉の張紘(ちょうこう)への手紙で「あなたや張昭(ちょうしょう)殿、それに王朗殿に私は到底及ばない」と記している。

228年に没した。
孫娘にあたる王元姫は司馬昭に嫁ぎ、晋の初代皇帝である司馬炎(しばえん)を産み、王朗の血は晋の嫡流として残った。
「魏書」を著した王沈(おうちん)は王朗を「才能と学識はずば抜けており、性質も厳格で、礼儀正しく慎ましく、施しを良くし、弱者を哀れまない強者を批判した」と評している。

「演義」では小物化&小悪党化が図られ、会稽太守の時には虞翻に「時代遅れ」と蔑まされ出奔された。なお史実での虞翻はまさに小物かつ小悪党の人物である。
曹操に仕えた後も出番のたびにいまいちの才能を発揮し、曹丕の代には宮中に乗り込んで帝位の簒奪に協力。
蜀との戦いでは76歳の老体に鞭打って諸葛亮に論戦を挑むも、完敗して恥と怒りから悶死するというさんざんな扱いである。

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