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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

三国列伝―魏・王昶  毒舌都督

王昶(おうちょう)字は文舒(ぶんじょ)
并州太原郡晋陽の人(??~259)

魏の臣。
同郷の王淩(おうりょう)と並び称され、年上の王淩を兄のように敬った。
法律や兵法に明るく、古代の法制度は苛酷に過ぎて現代にはそぐわないと、改正を唱え「治論」を、孫子の兵法に基づき「兵書」を著した。一族には温情深く、子や甥には名や字に謙虚を意味するものを選んでやった。
だが本人は毒舌で、子弟に与えた訓戒の中で旧友の人となりを悪い例として列挙し痛烈に非難している。

曹丕の太子の頃からの側近で、帝位につくと開墾事業で治績を上げた王昶を兗州刺史に抜擢した。
236年、司馬懿に推挙され、やがて都督として荊州方面の全権を任された。当時、荊州の役所は宛にあったが前線から遠かったため、王昶は新野に移し、得意の開墾事業で兵糧を蓄えた。

250年、二宮の変に揺れる呉を討伐する好機と、州泰(しゅうたい)、王基(おうき)とともに三方から呉に侵攻した。
迎え撃つ朱績(しゅせき)を挑発や伏兵を駆使して破り、江陵まで撤退させたが、城を落とすことはできなかった。
陸凱(りくがい)の援軍が現れると反撃され、危ういところだったが朱績と不仲の諸葛融(しょかつゆう)が兵を出さなかったため難を逃れた。

252年、孫権の死に乗じて再び呉を三方から攻めたが、別働隊の諸葛誕が丁奉の奇襲攻撃で敗走したため撤退した。

その後の毌丘倹(かんきゅうけん)や諸葛誕の反乱討伐にも貢献し、武官ながら三公(司空)の位に上った。
259年に没し、穆公と諡された。
子の王渾(おうこん)は呉討伐に大功あり、一族は三国統一の元勲として晋で栄華を極めていく。

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