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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―魏・王戎  竹林の七賢・走者



王戎(おうじゅう)字は濬沖(しゅんちゅう)
徐州瑯邪郡臨沂県の人(234~305)

魏の末期に酒と薬物に溺れながら清談を繰り広げた「竹林の七賢」の一人。
幼い頃から神童として知られ、その名は皇帝の曹叡(そうえい)の耳にまで届いていた。
小柄だが振る舞いは堂々としており、必ずしも礼法にこだわらなかったが弁舌に長け誰からも敬意を払われた。
七賢の指導者的存在である阮籍(げんせき)はもともと父の王渾(おうこん)の友人だったが、彼は20歳年下の王戎と語り合うのを好んだ。
王渾(呉征伐に大功のあった人物とは別人である)が没すると旧臣が次々と弔問に訪れたが、王戎は香典の類を全て断りますます名声を高めた。

父の爵位を受け継ぎ、司馬昭に招聘され重職を歴任した。
鍾会が蜀の征伐に赴く時、王戎に方策を尋ねると、老子の言葉を引き「勝つのは容易いが保つのは難しい」と答えた。鍾会は蜀を見事に降伏させたが、その後に独立を企み命を落としたため、王戎は彼の命運を見通していたのだと評価された。

次第に吝嗇家の面を表すようになり「庭に生えたスモモを売っていたが、発芽しないように種に穴を開けておいた」、「甥の結婚祝いに着物を贈ったが後から代金を請求した」、「嫁入りする娘に大金を持たせたが里帰りのたびに不機嫌な顔をした。金を返すと途端に上機嫌になった」など無数の逸話がある。
だがかつては父の香典を断ったように、七賢の仲間があるいは政争に巻き込まれ、あるいは過激な言動を採り上げられ命を落としていく中、世渡りのための韜晦術としてわざと吝嗇家を演じていたと思われる。
荊州刺史の頃に役人を私用で使い罷免されかけたり、軍法違反を犯し羊祜(ようこ)に処刑されかけたことも韜晦術の可能性がある。
しかし名声は変わらず高かったため、逆恨みして羊祜を中傷しても、かえって羊祜の評価が落ちるだけだったという。

279年、呉征伐で武功を立てた。統治で実績を上げたものの贈賄の疑いを掛けられたが、皇帝の司馬炎にかばわれたとされ、「晋書」では王戎について「特別な才能はないが多くの功績に恵まれ高位に上った」と評している。
光禄大夫の頃、母が没したため官を辞して喪に服した。もともと礼法にはこだわらなかったが並外れた親孝行の性格から、みるみるうちにやつれていき、劉毅(りゅうき)は命を落とすほどの孝行ぶりを「死孝」と評し、司馬炎は心配して医者と薬を送ったという。

司馬炎の没後も時の権力者に巧みに取り行っていき、ついには司徒(政治の最高位)にまで達した。
だが300年、娘婿の罪に連座して罷免されると発言権を失い、復職した後も政治力は回復しなかったが、それゆえに相次ぐ政争からも逃れ、天寿を全うした。

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