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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―魏・毌丘倹  裏切りの名将



毌丘倹(かんきゅうけん)字は仲恭(ちゅうきょう)
河東郡聞喜県の人(??~255)

~経歴~
魏の将。魏の末期に大規模な反乱を起こした。

父の毌丘興(かんきゅうこう)も魏に仕えた人物で、のちに陳倉を守り諸葛亮を敗退させた郝昭(かくしょう)や、蘇則(そそく)とともに雍州・涼州の平定に功績があった。毌丘倹は父の死後、爵位を継いだ。
父の威光もあり、二代皇帝・曹叡(そうえい)の幼い頃から側近として仕えた。
しかし曹叡がたびたび宮廷の増改築を行うと、諸臣とともに反対したためか、都から荊州刺史に転任さられ、以降も各地の刺史を歴任した。

237年、遼東の公孫淵(こうそんえん)が呉と結び不穏な動きを始めると、毌丘倹は討伐を命じられた。
しかし高句麗や烏桓の援軍を得ると、策を用いずに力攻めしたため、勝つことができずに撤退した。
翌年、司馬懿が討伐軍を任されるとその指揮下に入り、1年足らずで遼東を平定した。
すると高句麗は魏の勢力が及ぶことを嫌い、ついに敵対することとなった。
毌丘倹は高句麗に侵攻し、司馬懿のもとで戦を学んだのか、首都にまで攻め入る大勝利を上げた。
その後、曹氏が衰退し司馬懿の子・司馬師(しばし)が実権を握ると、毌丘倹は五本の指に入る重臣となった。

252年、孫権が没すると、それに乗じて呉の征伐を上奏した。
毌丘倹は荊州方面で陽動を行ったが、本隊を率い揚州に侵攻した諸葛誕(しょかつたん)が、諸葛恪(しょかつかく)軍の先鋒・丁奉(ていほう)の強襲により敗北した。戦後、毌丘倹は諸葛誕の後任となり揚州方面の守備を命じられた。
翌年、勢いを得た諸葛恪は大軍を率い合肥新城に攻め寄せた。
諸将は戦々恐々としたが、司馬師は落ち着き払い、毌丘倹と文欽(ぶんきん)、張特(ちょうとく)に持久戦を命じた。
百日にわたる包囲の末、疫病に苦しめられた呉軍は撤退した。毌丘倹は「建国以来、これほど困難な戦はなかった」と上奏し、戦死した将兵の功績を讃え、遺族のために便宜を図ったという。

254年、司馬師は反乱を企てた夏侯玄(かこうげん)、李豊(りほう)を処刑し、三代皇帝・曹芳(そうほう)を廃した。
夏侯玄らと親しかった毌丘倹は自分の地位を危ぶみ、かつて司馬懿に殺された曹爽(そうそう)に寵愛されていた文欽と語らい、6万の兵を率いて反乱した。
しかし二人は司馬師の専横を唱えたが、それに同調するものはなく孤立した。
王基(おうき)は反乱軍の準備が整っていないことを見抜き速戦を主張し、司馬師もそれを容れ諸葛誕、鄧艾(とうがい)らをつれ自ら十数万の兵を率いて出陣した。
毌丘倹の本拠地である寿春を襲わせると、反乱軍は次々と降伏し、戦わずして自壊していった。
文欽の子・文鴦(ぶんおう)は起死回生を狙い、父とともに夜襲を企てたが、文欽の軍は現れず、魏軍の反撃を受けた。
文鴦は十数騎で殿軍を務め、追撃する魏軍に何度も突入を敢行し、司馬師の本陣にまで迫った。驚いた司馬師は前年に患っていた目玉が飛び出してしまったが、それでも指揮をとり続け、文欽父子は呉へと亡命した。なおこれが原因で司馬師は間もなく死去している。

毌丘倹も逃げ出したが、民兵の張属(ちょうぞく)によって討たれた。ちなみに「演義」ではなぜか宗白(そうはく)という者に殺されたと置き換えられている。
弟や孫は呉へと亡命したが、子は処刑された。しかし妻は魏の重臣・荀氏の出だったため赦され、血縁は残った。

陳寿は「毌丘倹はずば抜けた才腕と見識を持っていたが、大きな野心を抱き、災禍をよく考えずに反逆した結果、一族と共に殺害された」と評している。

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