忍者ブログ

夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―魏・桓範  智嚢(?)



桓範(かんはん)字は元則(げんそく)
沛国の人(??~249)

~経歴~
魏の臣。曹爽(そうそう)の腹心とされ「智嚢(ちのう 知恵袋の意)」と呼ばれた。

曹操に見出され丞相府に入った逸材の一人。出身国の中では曹真(そうしん)の次に仕官したとされ、なかなかの古株である。
順調に出世を重ねたが、徐州・青州の都督を任されたおり、徐州刺史の鄭岐(ていき)と意見が衝突した。
桓範は激怒し地位を利用して鄭岐を斬ろうとしたが、鄭岐は上奏して中央の裁決を仰いだ。
結果、桓範に非があるとして免官となり、兗州刺史に左遷された。
不満を募らせていると、さらに冀州牧への転任の辞令が下りた。
それは以前、下位にいた呂昭(りょしょう)の配下となることを意味しており、桓範は妻に愚痴をこぼした。
すると妻は桓範の昔の失敗もあげつらいからかったため、激昂した桓範は剣の柄で妻の腹を突いた。
身重だった妻は流産し、後悔した桓範は病気と称し冀州牧を辞退した。
また若い頃から「漢書」を研究し、それを一冊の書にまとめ上げて、蒋済(しょうせい)に意見を求めたが、一顧だにされず、激怒した桓範は身分の上下も忘れにらみ合ったともいい、自尊心は人一倍高かったようである。

つまらない前半生を送ったが、曹爽が実権を握ると、同郷の先輩である桓範は敬意を払われ、重きを置かれるようになった。
「演義」では曹爽の軍師格とされるが、史実ではさほど親しく付き合っておらず、王粛(おうしゅく)などは曹爽一派の悪政に対する不満を桓範にこぼしている。

そして249年、曹爽が三代皇帝・曹芳(そうほう)とともに先帝の墓参に出かけようとしたとき、桓範は都を空けている間に政変が起きることを恐れ、考えを改めるよう諌めたが、聞き入れられなかった。
はたして司馬懿はその隙を突いて決起し、都を占拠し曹爽を逆賊として手配した。
桓範の才を買っていた司馬懿は登用しようとし、桓範もそれに応じようとしたが息子たちに「天子のもとへ赴くべきだ」と反対されたため、一転して都を脱出しようとした。
南門を守る司蕃(しばん)はかつて桓範に登用された恩があり、詔勅だと偽った桓範の言を信じ、門を開けた。
桓範は「司馬懿が謀叛を起こした」と言い、司蕃にも同行するよう求めたが、これは断られた。
桓範が脱出し曹爽のもとに向かったと聞くと司馬懿はあわてたが、蒋済は「駑馬、短豆を恋うと言いまして、凡人は目先の利に飛びつくものです。甘言を弄してやれば曹爽は桓範の進言など聞きますまい」とさとした。(司馬懿が「駑馬、短豆を恋う」と言ったという説もあり)

桓範は曹爽ら兄弟に皇帝をつれて許昌に逃れ、再起を図るよう促した。
だが司馬懿が「辞職すれば命は助ける」と伝えたため、それを信じた曹爽らは戦意をなくし、素直に辞職した。
曹爽らは蒋済(あるいは司馬懿)が予測したとおり愚直なまでに司馬懿の甘言を信じており、「職を失うだけで財産は残るだろう」と言った。
桓範は「曹真(曹爽らの父)は優れた方だったが、お前らは子牛同然だ。お前らに付き合ったばかりに我が一族までも滅亡の憂き目にあうとはな!」と吐き捨てたという。

やがて皇帝・曹芳は都に戻り、桓範も元の官職に復帰した。
しかし門番の司蕃が、桓範が司馬懿を「謀叛人」と呼んだことを告発し、間もなく逮捕された。
曹爽一派は残らず処刑され、桓範もまた一味だと断罪され、三族皆殺しとなった。

「智嚢」の異名で知られるが、業績を見るかぎりおよそ賢いとは思えない、口と素行の悪さで身を滅ぼした小人物である。

拍手[0回]

PR

コメント

プロフィール

HN:
小金沢
性別:
非公開

P R