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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―魏・杜預  破竹の勢い



杜預(どよ)字は元凱(げんがい)
司隷京兆郡杜陵県の人か(222~284)

~経歴~
魏、晋に仕えた名将。杜畿(とき)の孫。

名門に生まれ博学だった。特に「春秋左氏伝」を愛読し、馬の目利きに優れた王済(おうせい)と、蓄財を好んだ和嶠(かきょう)を評して「王済は馬癖、和嶠は銭癖」と言い、「私は左伝癖だ」とうそぶき、いくつもの研究書を著し、自分の字「元凱」も左氏伝から採るほどだった。
だが、父が時の権力者の司馬懿と争った末に平民に落とされたため、長く不遇をかこった。
しかし司馬昭(しばしょう)の代になると、その妹婿だった杜預もようやく出世の道が開けた。
263年、蜀の攻略の際には鍾会(しょうかい)のもとで戦った。
鍾会は蜀を滅ぼすと姜維にそそのかされて反乱を起こし、失敗して殺された。多くの者が連座して罰せられたが、杜預は関与していなかったため罪に問われなかった。

その後は律令の制定などに携わるが、官吏の昇進について意見を求められた際に「毎年、人望や評判の高い人物に優を一つ、評判の悪い者には劣を一つ加えます。六年して、優の多い者は抜擢し、劣ばかりなら免職します。優が多く劣が少ないならそれなりに昇格させ、劣が多く優が少ない者は左遷します」と当時としては画期的な出来高制を提案したところ、石鍳(せきかん)の反対にあって免職された。

鮮卑ら異民族が隴右に来襲すると、杜預は秦州刺史に任じられ石鍳のもとで防衛に当たった。
だがこの時も「敵は勢いに乗じており、装備も我が軍に勝ります。春まで戦わず準備を整えなければ十中八九負けるでしょう」と進言したところ、石鍳は戦意を下げると激怒し「杜預は城門や官舎を飾り付けることに腐心している」と讒言して杜預を収監してしまった。
危うく処刑されるところだったが、杜預の妻が皇帝・司馬炎(しばえん)の叔母にあたることから免職だけで許された。
しかしその後、杜預の予見通りに戦況が動いたため、かえって声望は高まった。

やがて匈奴の劉猛(りゅうもう)が大規模な反乱を起こすと、杜預は再び返り咲いて防衛を命じられた。
以前の進言に沿うように戦いを急がず、まず農政を安定させて地盤を固め、多くの都市の財政を立て直した。
ところが三度、石鍳と意見が衝突したためついに二人そろって免職となった。
数年後、皇族ということもあり杜預はまた復帰を許され政務に関わるようになった。
その政策は常に的確で無駄がないことから「杜武庫」と賞賛された。

司馬炎はかねてより呉の征討を企んでいたが、同じことを考えていたのは杜預、羊祜(ようこ)、張華(ちょうか)の三人だけだった。
羊祜は王濬(おうしゅん)に命じ軍艦を建造し準備を整えていたが、病を得て亡くなると後任に杜預を指名した。
交代の隙をついて呉の張政(ちょうせい)が攻め寄せたが、備えは万全で撃退された。
張政は名将だったが罪を恐れて敗戦を報告しなかった。しかし杜預は捕虜を返還して呉の中央に敗戦を報せたため、張政は免職となった。
後任には張政よりも才の劣る者が就き、のちにこれが呉攻略のための布石となる。

278年冬、杜預は機は熟したと、くり返し呉征討を提案した。
司馬炎は年明けに兵を出そうと考えていたが、張華もすぐにでも出陣することに賛成したため、杜預に征討を命じた。
杜預はたちまち大軍を催して複数の進路から呉に攻め入った。
張政の欠けた呉の前線はたやすく破れ、呉軍は電撃戦に泡を喰い、「敵は長江を飛び越えて現れた」と上奏するほどだった。
荊州はすぐに落ち、晋軍は呉の首都・建業に迫った。
諸将は急戦を危ぶみ、また長雨が続いたため疫病を恐れ進軍を控えるよう言い募ったが、杜預は「我が軍の士気は高く、せっかく勢いに乗っている時に止まるべきではない。たとえば竹を裂く時に、ほんの少し刀で切り込みを入れれば、あとは手でもたやすく裂くことができるようなものだ」と構わず進軍を命じ、呉の皇帝・孫皓(そんこう)を降伏させた。
この逸話がのちに「破竹の勢い」という故事成語となった。

戦後、杜預は激賞されるも「私は文官であり、武功は功績になりません」と褒美を辞退しようとしたが、もちろん司馬炎は許さなかった。
(事実、杜預は馬に乗ることすらできず、弓も不得手で、戦場では前線に出ることなく後方で指揮をとっていた)
しかし名誉欲は高かったようで、自分の功績を石碑に刻み、高山の頂上と深い谷の底に建てさせ、天地に功績を誇り、また貴族の恨みを買って失職することのないよう盛んに接待して地位の安全を図ったという。

三国統一後も優れた治績をあげ、領民からは「杜父」と呼ばれるほど敬愛され、63歳で没した。

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