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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―魏・杜畿  不惑の人



杜畿(とき)字は伯侯(はくこう)
京兆郡杜陵県の人(??~??)

~経歴~
魏の臣。「破竹の勢い」、「左伝癖」の語源で知られる杜預(どよ)の祖父。

母を早くに亡くし、継母にいびられたが孝行の心を忘れなかったため声望を高めた。
継母も亡くなると遺体を背負って長安に向かった。その途上、盗賊に襲われたが杜畿は平然と「お前たちは財産が目当てだろう。私には何も無いから襲っても無駄だ」と盗賊を説得し事なきを得た。

20歳にして県令となり、数百件もいた未決囚を一気に裁いた。大雑把な処理だったが要点は外していなかったため、「年若いわりに見識がある」と讃えられた。
京兆を治めていた張時(ちょうじ)とは旧知の間柄で、功曹(事務次官のような役職)として招かれたが、杜畿の仕事ぶりはやはり大雑把だったため「功曹としてはふさわしくない」と苦言を呈された。だが杜畿は「功曹にはふさわしくないが、太守にはふさわしいだろう」とうそぶいた。後に現実に杜畿が太守となると、再会した張時は「お前と私の地位が逆になるとはな」と嘆息したという。

都に住む耿紀(こうき)を訪ね一晩語り明かしたとき、それを隣に住んでいた荀彧(じゅんいく)が偶然耳にしていた。翌朝、荀は耿紀に「国家的な人材がいるのにどうして黙っていた」と怒ると、すぐに杜畿を曹操に推薦した。
曹操も杜畿の才を認め、自身の副官に、次いで西平の太守に任じた。

206年、袁氏の勢力は衰退していたが、袁紹の甥である高幹(こうかん)は并州に大きな勢力を保っていた。
杜畿は高幹に加担し河東の太守を追放した衛固(えいこ)と知り合いだったため、後任の河東の太守として赴任した。
曹操ははじめ夏侯惇の軍を派遣しようとしたが、杜畿は「大軍で攻め寄せたら河東の住民たちは心をあわせて抵抗します。私が内部から切り崩しましょう」と言い、一台の馬車で河東に入った。
衛固は表立って曹操に反抗するのはまずいと考え、杜畿も脅して追い出そうとし、役人を数十人も殺した。だが杜畿はまるで態度を変えなかったため、衛固は脅しは無駄だと悟り面従腹背した。
杜畿は「兵は少しずつ徴兵したほうが効率がいい」や「兵士に交代で休暇を取らせましょう」と助言に見せかけた謀略で多くの兵を集めさせず、その裏で自分に協力する者を集め、民を手なずけた。
機が熟すと夏侯惇の軍を呼び寄せ、一気に河東を制圧し衛固を討ち取った。

杜畿は学校を作り自ら教鞭をとるなど河東をよく治め、広く儒学者を集めたため、河東に居を構える儒学者は当時、非常に多かった。
211年に馬超が反乱を起こした時も、付近の郡は一斉に反旗を翻したが、河東だけは馬超に与せず、曹操の遠征軍の兵糧をまかない、戦後にも大量の兵糧が余るほどで、曹操は「天下一の治績だ」と絶賛した。

曹丕の代になると中央に招かれ、曹丕が遠征するときには留守の間の政務を任された。
だがその留守中、曹丕の船を建造し試運転している時に、風にあおられて船は転覆し水死した。62歳だった。
諸葛誕(しょかつたん)も河に落ちたが、岸に流れ着き無事だった。


~死にまつわる逸話~
ある日、杜畿の前に死神の使いだと名乗る童子が現れた。杜畿が命乞いすると、童子は「代わりを探してくるから、それまで黙っていなさい」と言い姿を消した。
それから20年経ち、杜畿がついその話を人にすると、年内に杜畿は亡くなったという。
奇遇にも日本の「雪女」の民話に似た逸話である。

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