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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

三国列伝―魏・杜恕  自由に生きた男

杜恕(とじょ)字は務伯(むはく)
司隸京兆尹杜陵の人(198~252)

魏の臣。
「魏書」に列伝される杜畿(とき)の長男。

誠実で表面を飾らず、若い頃は名声を得られなかった。
馮翊郡の李豊(りほう)とは幼馴染だったが、先に李豊が名声を得て出世すると、杜恕の自由闊達さを引き合いに出して批判する者が増えたため、李豊は杜恕をよく思わなくなり、杜恕も成り行きに任せてますます名声を求めず、平民のままだった。

曹丕の代に父が事故死したため後を継ぎ、曹叡(そうえい)に抜擢され太和年間(227~233)に散騎黄門侍郎に上った。派閥にくみさず、政治に乱れがあれば正論で諌めたため辛毗(しんぴ)らに高く評価された。
同僚となった李豊と関係修復し、袁侃(えんかん)、荀俁(じゅんぐ)らと親しく付き合った。(『杜畿伝』)
また韓観(かんかん)・王昶(おうちょう)を「多くの才能を備え、高位と重任にふさわしく、三州の刺史に留まる人物ではない」と推薦した。(『徐邈伝』)
杜恕は刺史が軍権を握ることに反対し、鎮北将軍の呂昭(りょしょう)が冀州刺史を兼任することに異を唱えた。
また官吏の勤務評定を「才能があっても能力を十分に引き出せないならば役に立たない」と批判し、取り止めさせた。
さらに廉昭(れんしょう)が弾劾を頻発するとそれを用いた曹叡もろとも批判したりと、8年間の在職中、常に正論を唱え続けた。
だがそのため周囲としばしば衝突したため、外に出され弘農太守、趙国相、河東太守などを歴任した。(『杜畿伝』)
河東太守の時、隠者の焦先(しょうせん)を招聘しようと、裸で暮らす彼に衣服を贈ろうとしたが、一言も話せなかった。(『管寧伝』)
任地での統治は大筋を捉えるだけに留まり、絶大な治績を挙げた父には及ばなかった。

248年頃、幽州刺史として赴任した。(『杜畿伝』)
この頃、多くの重臣が高名な隠者の胡昭(こしょう)を招聘したが応じなかった。杜恕も自ら草庵を訪ね、胡昭の道理を論ずる言葉に謙虚さと敬意を感じ、大いに尊敬したという。(『管寧伝』)

友人の袁侃は征北将軍に任じられた程喜(ていき)が、かつて敵対した田豫(でんよ)を讒言で陥れたことから、交友を結ぶよう忠告したが、杜恕は気にもとめなかった。
249年、鮮卑からの使者が関所を通らなかったため、杜恕は独断で使者の子供を斬って処罰し、朝廷へ報告しなかった。
程喜はすかさず配下の宋権(そうけん)を送り、見逃す代わりに謝罪するよう持ちかけたが、杜恕はそれを断ったため、程喜の弾劾により危うく処刑されるところだったが、父の功績により死罪は免れ、幽州刺史を罷免のうえ配流となり平民に落とされた。

その後、復帰は叶わず、阮武(げんぶ)に「あなたは公正な道に進めるのにそうせず、高位にいる才能があるのに求め方を知らない。過去から現在を語る学識があるが集中できない」と、かつて自身が批判したように、才能を持ちながら引き出す能力がないことを指摘され、「時間ができたのだからじっくり思索し独創的な見解をまとめなさい」と勧められて配所で書を著し、252年に55歳で没した。
陳寿は「自由な精神で思い通りに振舞い、災難を顧みなかった結果、失敗を招いた」としつつも「その意見や論は全て立派なものである」と評し、伝においても多く引用している。

257年、楽詳(がくしょう)の上奏で子の杜預(どよ)が、祖父の杜畿の功績により豊楽亭侯に取り立てられた。(『杜畿伝』)
杜預は司馬懿の娘婿であり、次第に頭角を現していき、279年からの呉征伐では指揮官として活躍した。また現代にも残る「破竹の勢い」は杜預の言葉である。

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