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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―魏・曹髦  魏帝最後の反抗



曹髦(そうぼう)字は彦士(げんし)
魏の人(241~260)

魏の第4代皇帝。
父の曹霖(そうりん)は曹丕の子で、曹髦はその次男である。
先帝の曹芳(そうほう)が司馬師によって廃位されると、司馬師は曹操の子である曹據(そうきょ)を推したが、郭太后(かく)は夫の曹叡(そうえい)の弟に当たる曹髦を推した。
曹髦は幼い頃から才気煥発で、司馬師が密かに鍾会へその人物を尋ねると「才は曹植(そうしょく)に匹敵し、武勇は曹操に似ている」と答えたといい、傀儡にするには相応しくないと司馬師は難色を示したが、郭太后に押し切られ、14歳で即位した。

議論を好み、16歳で荀彧(じゅんいく)の子の荀顗(じゅんぎ)らと過去の王朝の皇帝たちの優劣について論じた記録が残る。
鍾会や王沈(おうちん)、司馬望(しばぼう)らとしばしば討論会を開いては、文学論を著した。せっかちな曹髦は人を待つのが嫌いで、司馬望が宮中の役職ではないためいつも来訪が遅れるのを厭い、専用の車と兵を与えてやり、用事があれば車で駆けつけさせたという。

先帝の曹芳の代から魏は司馬氏によって牛耳られ、群臣は曹髦に目通りできず、司馬氏の顔色ばかりうかがっていた。
いずれは廃位されるに違いないと思い悩んだ結果、260年に曹髦は王沈、王経(おうけい)らを集め挙兵の相談をした。
この時に「司馬昭の心は路傍の人も皆知っている」と言い、この言葉は現代中国でも「公然の秘密」といった意味で使われている。
王沈らは揃って反対したが、曹髦を止めることはできず、彼は数百人の兵を率い挙兵した。

だが王経を除き、相談を受けた王沈らはいずれもすぐさま司馬昭に注進したため、その腹心の賈充(かじゅう)がたちまちのうちに曹髦を包囲した。
しかし誰も皇帝に刃を向けられず戸惑い、成済(せいさい)が対処を尋ねると、賈充は罪に問わないことを約束し、曹髦を殺害させた。享年20。

成済は全ての責任を押し付けられ処刑され、ただ一人密告しなかった王経もまた処刑された。
賈充は罪に問われず、司馬昭の友人でもあった重臣の陳泰(ちんたい)と、司馬昭の叔父の司馬孚(しばふ)だけが、曹髦の亡骸を膝に乗せ哭礼を行った。
陳泰は賈充の処刑を訴えたが、司馬昭は受け入れなかった。

「正史」は晋代に著されたため、陳寿は皇帝殺害の事態をありのままに記せず、曹髦が郭太后の暗殺を企んだため衛兵に殺された、とする公式発表のみを記した。
しかし通常は「崩ず」と表すべきところを「卒す」と書き、また没した地名を付さないことで、事態の異常さを間接的に示した。
事件の詳細については裴松之が注で補足している。

司馬昭はあくまで暗殺未遂犯として曹髦を扱い、葬儀も庶民の格式で行おうとしたが、司馬孚が郭太后に掛け合って、王の格式に改めさせたという。

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