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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

三国列伝―魏・曹袞  曹操の子の中山王

曹袞(そうこん)字は不明
豫州沛国譙の人(??~235)

曹操と杜氏(とし)の子。(『武文世王公伝』)

母はもともと呂布配下の秦宜禄(しんぎろく)の妻だったが、紆余曲折あり198年に曹操の側室となり、寵愛され曹袞ら3人の子に恵まれた。(『明帝紀』)

幼い頃から学問好きで、十数歳の頃には立派な文章をものした。あまりに根を詰めるので周囲の者は病気を心配し、読書を控えるよう勧めたが聞き入れなかった。
才能では「詩聖」とうたわれる異母兄の曹植(そうしょく)には流石に及ばなかったが、好んで彼と張り合ったという。

216年、平郷侯に封ぜられたのを皮切りに各地に転封され、221年に公に上がった。配下たちは祝福したが曹袞は「私は宮殿の奥深くに住み、農耕の難儀さも知らないから、不遜やわがままから過失も多いだろう。祝ってくれたからには私の欠陥も救って欲しい」と恐縮した。
配下らは言う通りに見守ったが「過失があればもちろん指摘するが、善事があればそれも報告しなければいけない」と言い、その美点を称賛した。
曹袞はますます恐縮し「身を慎むのは人間として普通のことなのに、諸君はわざわざそれを知らしめた。善事が世に伝わらないことを私は気にしない。こんなことは利益にならない」と称賛もやめるよう命じた。
質素倹約を重んじ、妻妾には機織りをさせ、召使いの仕事を自らさせた。

222年に北海王に進んだ。ちょうど黄龍が現れたため上奏して皇帝の徳を讃えると、曹叡(そうえい)は曹袞の教養を讃える詔勅を返した。
231年、入朝したが禁令を犯した。曹叡は「王(曹袞)は平素から敬虔で慎み深く、うっかりしたのだろう」と弁護し、所管の役人のがんばりにより領邑を減らされるだけで済んだ。
曹袞はますます謹厳に務めたためその翌年には元に戻された。

235年、病に倒れ、同母兄の曹林(そうりん)に後事を託し息を引き取った。恭王の諡号を贈られた。
後を継いだ子の曹孚(そうふ)への遺言を以下に記す。

「お前は幼くまだ正しい道を知らない。早く主君となれば安楽のみを知り苦痛を知らない。苦痛を知らなければ不遜と奢侈により間違いを犯すだろう。
大臣には礼を尽くせ。大臣でなくても老人には礼を尽くせ。兄には敬意を、弟には慈しみを持て。兄弟が悪事を働いたら諌めろ。聞き入れられなければ泣いて教えよ。それでも駄目なら母に告げよ。もしなおも改めなければ上奏し領地を返還しろ。災難に掛かるくらいならば貧しいほうがよい。
だがこれらは大きな悪事についてのことだ。小さな過失なら兄弟をかばいなさい。
我が子よ、慎んで身を修めよ。朝廷に忠誠を、太妃(祖母)に孝心を持て。内では祖母の命令を聞き、外では伯父(曹林)の指示を受けろ。
怠け心を起こさず、私の霊魂を慰めてくれ」(『中山恭王袞伝』)

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