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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―魏・曹爽  絵に描いたような独裁者


 
曹爽(そうそう)字は昭伯(しょうはく)
出身地不明(??~249)
 
曹操の甥にあたる曹真(そうしん)の長男。
三代皇帝・曹芳(そうほう)の時代に専権を振るった。

二代皇帝・曹叡(そうえい)が太子の頃から親密で、曹叡が36歳の若さで亡くなると司馬懿とともに後事を託された。
はじめは司馬懿を父親のごとく敬っていたが、跡を継いだ曹芳はまだ8歳と幼く、側近の何晏(かあん)らにそそのかされ、司馬懿を名誉職に追いやり実権を奪った。
しかし依然として諸葛亮や公孫淵(こうそんえん)との戦いで実績ある司馬懿が軍権を握っていたため、曹爽は功にはやり蜀の征伐を試みた。
だが蜀の険しい地形に阻まれて補給がはかどらず、王平(おうへい)の奮戦もあり大敗を喫した。
これにより曹爽は軍権を諦めて、政治的に権力を握ることを志ざし、身の危険を感じた司馬懿は高齢を理由に隠居した。
曹爽が側近の李勝(りしょう)をさしむけて様子を探らせると、司馬懿は耄碌したふりであざむき、安心した曹爽はますます専横を強めた。

そして249年、曹爽一派が曹芳をともない墓参に出かけた隙をつき、司馬懿は決起して都を占拠した。
司馬懿はこの日に備えて私兵を養い、また郭(かく)皇后(曹叡の妻)のお墨付きを得ており、行動はきわめて迅速であった。
曹爽の側近で「智嚢(ちのう 知恵袋の意)」と称された桓範(かんはん)は都を脱出し、曹爽に司馬懿との対決を求めた。
司馬懿は桓範が逃れたと聞き肝を冷やしたが、蒋済(しょうせい)が「小人は目先の利にとらわれます。甘言を弄すれば曹爽は戦おうとしないでしょう」と助言したため(司馬懿がそう言ったという説もある)、辞職を条件に赦免すると伝えたところ、桓範は辞職だけで済むはずがないと反対したが、曹爽は喜んでそれに従った。
しかし曹爽らは軟禁され、食料の買い出しに行くことすら禁じられた。
司馬懿が自分たちを害しようとしているのかと疑い、食料の差し入れを求めたところ、すぐに差し入れされたため曹爽らは安堵した。

だが司馬懿の決起からわずか4日後、曹爽一派は宦官の証言という薄弱な根拠をもとに謀反の嫌疑をかけられ処刑された。桓範、何晏らもそれに連座した。
魏は曹丕の方針により、一族の者が反乱を起こさないよう曹氏のほとんどは重職に任じられておらず、司馬氏に対抗しうる人物はいなくなり、以降は司馬氏が実権を握り、やがて魏の滅亡、晋への禅譲とつながるのだった。
曹爽はかつて、もしもの時に備え一族の者を取り立てるよう進言されていたが、それを退けていた。
絵に描いたような独裁の果てに、なにもかも甘い見通しが招いた身の破滅であった。

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