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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―魏・曹丕  冷徹なる二代目

  

曹丕(そうひ)字は子桓(しかん)
豫州沛国譙県の人(187~226)

~経歴~
曹操の嫡子。魏の初代皇帝。

8歳で巧みな文章を書き、剣術にも優れたため11歳にして従軍していたという。
ゲーム「三國無双」では双剣を用いるが、これは「若い頃には武器を両手で扱えば敵うものはなかった」という記述と、酒席で剣の達人とさとうきびで打ち合い、圧勝したことをふまえての設定である。
また詩作にも優れ、最古の七言詩を残している。

母の卞氏(べんし)はもともと踊り子をしていた側室で、曹丕も三男に過ぎなかったが、長男の曹昂(そうこう)は若くして戦死し、それに激怒した正室の丁氏(ていし)は曹操と別れたため卞氏が正室となり、次兄の曹鑠(そうしゃく)も病死すると、嫡子に立てられた。曹操が詩作において当代随一とうたわれた五男の曹植(そうしょく)を寵愛したため、後継者争いがくり広げられたが、これは当人同士ではなく、取り巻きの間で行われたもので、袁紹や孫権のように国を揺るがすほどの問題とはならなかった。

早くから曹操が出征している間の留守居役を務め、曹操が亡くなると跡を継ぎ、すぐさま後漢の15代皇帝・劉協(りゅうきょう)に退位を迫り、帝位を禅譲され魏の初代皇帝となった。歴史的にはこの時点から三国時代が始まったことになる。

関羽の仇討ちに乗り出した劉備が呉を攻め、長江に沿い細長い陣を布いたと聞くと、曹丕は「劉備は戦を知らない」とあざ笑った。はたして劉備と対峙した陸遜は、火計で劉備軍の陣を分断して大勝した。
その直後、曹丕は三方から一斉に呉に攻め入らせた。特に江陵での戦は熾烈をきわめ、攻防は数年も続いたが朱然(しゅぜん)の決死の指揮でなんとか守りぬき、作戦は失敗に終わった。
この際「曹丕はなぜ蜀と呉が戦っている時に横から攻めなかったのか」という疑問が残るとおり、戦は不得手だったようで、この呉も数回にわたり呉に遠征したが、一度は徐盛(じょせい)の「沿岸にハリボテの城壁を造る」という子供騙しのような策に驚き退却、他にも冬に遠征したら河が凍ってしまいなにもできず退却など、戦果はほとんど挙げられなかった。そもそも攻めるなら呉ではなく、劉備を失ったばかりで、しかも南方が荒れていた蜀を攻めるべきでもある。

一方で治績は大きく挙げている。まず陳羣(ちんぐん)の建議で九品官人法を制定し、官吏の登用法に道筋をつけた。これは改定を重ね400年近く用いられ、日本にも大きな影響を与えている。
他には後漢王朝の衰退をふまえ、宦官・皇后・外戚の権力を弱め、弟たちは各地に転封させ、皇帝に対抗する力を奪い反乱を未然に防いだこと、私刑や仇討ちを禁止し密告罪を設け、治安を安定させたことなど数多くの政策を実行した。死後には特に治政に優れた皇帝に贈られる「文帝」の諡号を得たことも、その手腕を表している。

だが唯一の計算違いは、曹丕が40歳にして風邪をこじらせ肺炎を起こし、急逝したことだった。
それによりまだ20歳前後の曹叡(そうえい)が跡を継ぎ、年若い曹叡は司馬懿を頼り、大きな権力を与えてしまった。
一族の力を弱める曹丕の政策は裏目に出て、司馬懿に対抗できる曹一族はなく、後に司馬氏による帝位簒奪を招くのである。

せめてあと10年生き永らえ、国力を安定させていれば、三国志の歴史は大きく変わっていたことだろう。


~三国一性格の悪い男~
曹丕はおそらく三国一性格の悪い男である。それも董卓や李傕(りかく)のような暴虐なものではなく、精神攻撃が多く、現代にも通じるものがある。いくつか逸話を挙げる。

まずは妻の甄氏を殺害したこと。
甄氏はもともと袁紹の次男・袁熙(えんき)の妻で評判の美女だった。官渡の戦い後、袁氏の残党を攻めた際にそれを曹丕が略奪したのである。余談だが曹操は「まるで息子の嫁取りのために袁紹を破ったようだ」と苦笑したというが、三国一の女好きで知られる曹操のこと、内心は忸怩たる思いだったのではないか。
そうして嫁にした甄氏だが、次第に寵愛は薄れ、側室の郭皇后(かく)を気に入ると、邪魔だと言わんばかりに難癖つけて甄氏を殺してしまった。
だがこの時ばかりはさすがに思うところもあったようで、甄氏の死後すぐに日蝕が起こると、曹丕は「天が私に怒ったのだろう」と述懐している。

つづいて曹操旗揚げ当時からの功臣である曹洪(そうこう)を罷免したこと。
若い頃に借金を断られたのを恨みに思っていた曹丕は、曹洪の配下が不祥事を起こすと、それを口実に曹洪を処刑しようとした。幸い卞氏が割って入り、曹丕の妻の郭皇后を「曹洪を殺したらお前もただではおかない」と脅したため、妻に泣きつかれた曹丕は、曹洪を罷免して恨みの矛先を収めた。

さらに于禁(うきん)を憤死させたこと。
曹洪と同じく古くからの功臣である于禁だが、関羽に敗れて降伏し、関羽が呉に討たれると身柄は呉に移された。呉で虞翻(ぐほん)にさんざんいびられた于禁は、のちに魏に返されたときにはすっかりやつれていた。
それを迎えた曹丕は、「お前が呉にいる間に父(曹操)が亡くなった。墓参りに行ったらどうだ」と勧めた。于禁が墓参りに行くと、そこには関羽に命乞いする于禁を描いた壁画が飾られており、于禁は恥と怒りから病を発し憤死したという。

まだまだある。夏侯尚(かこうしょう)の妾を殺したこと。
夏侯尚は曹丕の一族にあたる妻(曹真(そうしん)の妹である)をないがしろにし、妾をかわいがっていた。
その妻に泣きつかれた曹丕は激怒し、妾を殺してしまった。夏侯尚は悲しみのあまり精神を病み、妾の遺体を掘り起こして、遺骨と添い寝する有様だった。それを聞いた曹丕は「杜襲(としゅう)は夏侯尚は私の友人にふさわしくないと言っていたが、その通りであった」とさらに怒りを深めたが、実際に夏侯尚に会うと、あまりの憔悴ぶりに「やりすぎだった」と反省したそうである。
真っ先に「俺の友人にふさわしくない」と思うあたりすさまじい身勝手さである。

もうひとつ。姉の嫁入りのこと。
曹操は娘を丁儀(ていぎ)に嫁入りさせようと考え、曹丕に相談した。すると曹丕は「丁儀は隻眼で、姉上の夫にはふさわしくありません。夏侯楙(かこうぼう)に嫁がせたほうがいいでしょう」と答えた。
夏侯楙はやはり隻眼で知られる夏侯惇の息子であり、「同じ片目なら夏侯惇の息子のほうがまだマシだ」という皮肉である。
いちおう丁儀は後継者争いのライバルである曹植の腹心だという背景はあるが、母の同じ実姉のことでさえ皮肉を言わずにいられないのはすごい。
のちに曹操は丁儀に会うと「あんなに頭が切れるのならば盲目であろうと嫁がせるべきだった」と悔やんだと言うが、曹操の死後に曹丕はこれも難癖つけて丁儀を殺している。
ちなみに夏侯楙に嫁いだこの姉だが、夫の吝嗇と好色に悩まされ、義弟と組んで讒言し、夫を処刑させようとしている。弟も弟なら姉も姉である。

他にも鮑勛(ほうくん)、楊俊(ようしゅん)ら父の代からの重臣を何人も殺す(鮑勛にいたっては、その父は曹操の命の恩人である)など、ただでさえ皇位簒奪者として実際以上に悪名高く描かれてしまうのに、悪行の数々でそれに拍車をかけているのはなんとも言えない。
だが文武両道に優れ、多くの才能を示したこと。わずか7年の在位で多くの治績を挙げたこと。数々の粛清を行なった冷酷さ。亡き父の側室を全て引き取ったという並外れた女好き。これは創作とも言われるが三国後期の才女・辛憲英(しんけんえい)に「太子になって浮かれている」と呆れられた、喜怒哀楽を隠さない性情など、父・曹操に通じるものが多く、曹操の血を最も濃く受け継いだ、後継者にふさわしい人物だったと言えるだろう。

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