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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―魏・文欽  DQNはDQNを呼ぶ



文欽(ぶんきん)字は仲若(ちゅうじゃく)
豫州沛国譙県の人(??~258)

魏の将。父の文稷(ぶんしょく)と同じく勇猛だった。
219年、魏諷(ぎふう)の反乱に連座し多くの名門の子弟が処刑された時、文欽も魏諷に同調していたため殺されそうになったが、曹操は父の武功に免じて赦した。

傲慢で礼節をわきまえず、絶えず上官と衝突し法にも従わなかったが、曹叡(そうえい)に目を掛けられていたため罪には問われなかった。
曹叡が没すると、跡を継いだ曹芳(そうほう)は幼少だったため曹爽が実権を握った。
文欽はその頃、「貪欲で残忍」と弾劾され任地から都へ召還されていたが、曹爽と同郷だったためかえって昇進した。文欽はますますつけ上がり尊大に振る舞ったため大いに虚名を博した。
やがて曹爽は司馬懿によって粛清されたが、勇猛で多くの兵を抱えていた文欽は反乱を警戒され、この時も逆に昇進した。

253年、呉の諸葛恪(しょかつかく)が合肥新城を包囲すると、毌丘倹(かんきゅうけん)とともに救援に赴いた。後に毌丘倹が「魏の建国以来これほどの苦難はなかった」と上奏するほどの苦闘の末に、呉軍は疫病で撤退した。

翌年、魏の実権を握る司馬師は反乱を企てた李豊(りほう)、夏侯玄(かこうげん)を処刑し、曹芳も退位させた。
夏侯玄と昵懇だった毌丘倹は累が及ぶのを恐れ、その前にいっそ反乱しようと考え、同じく粛清対象となりそうな文欽に接近した。
文欽も曹爽粛清の因縁はもちろんのこと、戦果を水増しして報告したのを司馬師に認められなかったことを逆恨みしており、255年、毌丘倹とともについに反乱を起こした。

東方面軍を率いていた両者の軍勢は6万にも及んだが、司馬師の対応は早く諸葛誕、王基(おうき)を急行させ文欽らを前線に釘付けとした。
そのため後方に残された兵らは指揮を受けられず、次々と離反していった。
さらに司馬師は兵を二手に分け、自ら文欽の迎撃に向かった。文欽は息子の文鴦(ぶんおう)とともに奇襲を狙ったが、それも看破されており文鴦と合流できず大敗した。
文鴦は孤軍奮闘し、司馬師の眼前にまで迫ったため、驚愕した司馬師は前年に患っていた目玉が飛び出し陣中で没したが、それで戦況が覆ることはなく、文欽父子は呉へと亡命した。
亡命者の文欽は呉でも変わらず傲岸不遜だったため諸将に恨まれた。
しかしここでも権力者の孫峻(そんしゅん)、孫綝(そんちん)らに気に入られ重用された。

257年、魏で諸葛誕が反乱すると、文欽はその援軍に赴いた。
文欽は包囲を破り諸葛誕と合流するが、両者はもともと険悪な仲であり、戦況も不利に陥るとたがいに猜疑心を抱き合い、とうとう諸葛誕は文欽を斬り捨ててしまった。

子の文鴦らは魏へ降伏し、司馬昭もそれを喜んで迎え入れると「かつて反乱した文欽の子でさえ赦される」と喧伝したため、諸葛誕の兵も次々と魏へ寝返り、やがて諸葛誕も降伏した。
文鴦らの働きにより、文欽は反乱者ながら故郷への埋葬を許されたという。

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