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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―魏・張既  タフ・ネゴシエーター



張既(ちょうき)字は徳容(とくよう)
司隸左馮翊高陵県の人(??~223)

魏の臣。容貌と所作に優れ文章に巧みで、幼少の頃から評価された。
游殷(ゆういん)は幼い張既を賓客として遇し、息子の将来を頼みさえしたという。
長じると県令に出世し多大な治績を上げた。

202年、袁尚(えんしょう)は一族の高幹(こうかん)や猛将の郭援(かくえん)、匈奴の軍を動かし曹操軍を包囲させ、さらに関中の諸侯を味方につけようとした。
司隷校尉の鍾繇(しょうよう)の指示で張既は、関中の諸侯の筆頭格である馬騰(ばとう)を説き伏せ、曹操方につけるとともに1万の援軍を引き出した。
馬超、龐徳の率いる援軍は郭援を斬り、高幹と匈奴軍を降伏させた。

205年、高幹の蜂起をきっかけに反乱が相次いだが、この時も張既は馬騰に援軍を出させ鎮圧に成功した。

208年、袁氏を滅ぼした曹操は荊州への遠征を考えたが、関中の諸侯の動静が気がかりだった。
そこで張既を送り、馬騰に軍勢を解散し都に上るよう命じた。馬騰はこれを渋ったが、張既は郡太守ら有力者をこぞって出迎えに行かせたため、馬騰は断りきれず息子の馬超に軍勢を預けると、下の息子らをつれ朝廷に出仕した。
一方で張既は馬超の反乱を警戒し、関中に近い諸県に兵糧を集めさせた。

211年、はたして馬超は反乱したが、張既の備えは万全であり、また遠征軍に同行し道案内を務め勝利に貢献した。
その後の漢中征伐では雍州刺史として別働隊を指揮し、氐族と戦い降伏させた。

218年には曹洪(そうこう)とともに蜀軍と戦い、氐族を動かし呉蘭(ごらん)を討ち取らせた。

長く関中以西を治めた張既の判断は軍事・政治問わず常に的確で、涼州で大規模な反乱が起こると曹丕は「張既でなければ異民族で乱れる涼州は治められない」と涼州刺史に任じて鎮圧に当たらせた。
後詰として費曜(ひよう)、夏侯儒(かこうじゅ)も派遣されたが、張既は彼らの到着を待たず反乱軍の裏をかいて一気に進軍し武威を占拠した。費曜の軍とは合流したが、張既の兵は強行軍のため疲弊し、兵糧も不足していた。
そこで韓遂(かんすい)の参謀だった成公英(せいこうえい)と策を練ると、反乱軍に決戦を挑み、伏兵を用いて大勝した。

雍州・涼州の統治は十数年に及び、また楊阜(ようふ)や、かつて将来を頼まれた游殷の子ら多くの人材を推挙した。
若い頃に些細な罪で鞭打ちされた徐英(じょえい)とは親しくこそしなかったが、私怨を捨てて交流を結んだ。徐英もまた身分が逆転した張既におもねらなかったため、ともに讃えられたという。

これだけの大人物でありながら「演義」には登場せず、「蒼天航路」で脚光を浴びるまで全くというほど顧みられなかったのは不思議である。

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