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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―魏・崔琰  曹操を悪役にした男



崔琰(さいえん)字は季珪(きけい)
冀州清河郡東武城県の人(163~216)

魏の臣。威厳ある容貌で4尺もの長い髭をたくわえていた。
若い頃は剣術に優れたがやがて学問に目覚め、29歳の時に大学者の鄭玄(じょうげん)に学んだ。
1年ほど後、郡を黄巾賊に襲われ食料不足に陥り、故郷も盗賊がはびこり帰国できず、各地を4年間にわたり放浪した。

その後は袁紹に仕えたが進言を用いられず、袁紹が没すると二人の子は跡目争いを始め、名声高い崔琰を味方に引き込もうとしたが、仮病で固辞したため投獄された。
曹操が袁氏を平らげると招聘を受け冀州の別駕従事に任じられた。曹操は冀州の戸籍を調べ「30万の兵が得られそうだ」と言うと崔琰は「戦乱に苦しむ民の気持ちを思いやらずなぜ軍勢の話をするのか」と諫言した。周囲の者は顔面蒼白となったが曹操はすぐに陳謝し、嫡子の曹丕の補佐を命じた。

曹操配下で頭角を現し、特に人事で辣腕をふるった。孫礼(そんれい)、盧毓(ろいく)、崔林(さいりん)らは名声低かったが、崔琰に見出され全員が後に三公(政治の最高位)に上った。
ある時、曹操は後継者を曹丕か四男の曹植(そうしょく)にするか思い悩み、周囲に匿名で意見を求めた。
崔琰は姪が曹植に嫁いでいたが、匿名にもせず曹丕が継ぐべきだと理を尽くして主張し曹操を感嘆させた。

しかし曹操が魏王になった際、楊訓(ようくん)がそれを賛美する上奏文を出したところ、酷評された。
楊訓はかつて崔琰が推挙した人物であり、崔琰は楊訓を擁護する批評を出した。ところがその批評が曹操への誹謗中傷だと讒言され、崔琰は投獄された。
はじめは髠刑(髪を切られる罰)で済まされたが、蟄居中も何事もなかったように客を招き堂々と振る舞う姿が不遜に映ったのか、曹操は処刑を命じた。(四肢の切断など肉刑を恐れての自害とも伝わる)

陳寿は「曹操が嫌悪し(名声高かったが)処刑を命じた人物は孔融(こうゆう)ら多数いるが、崔琰はその中で最も死を惜しまれ、また現在でも無実の罪だと信じられている」と記した。
きわめて名声高く、儒者の代表格だった孔融と崔琰の処刑により、後世の創作で曹操の悪役化が図られたと言って過言ではないだろう。

「演義」では曹操の魏王への就任に強硬に反対したため処刑された、と簡略化されている。

ちなみに「演義」で安定太守として登場し諸葛亮を罠に掛けようとするも見破られ、あっさり殺された崔諒(さいりょう)は孫(または兄の孫)であるが、その事実は伏せられている。

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