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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―魏・孫礼  虎殺しの名臣



孫礼(そんれい)字は徳達(とくたつ)
幽州涿郡容城県の人(180~250)

~経歴~
魏の名将。「演義」では単なる虎殺しの猛将としてしか描かれないが、三公の位にまで上った優秀な政治家でもある。

若い頃から果断に富み、厳格な性格だった。多くの人材を推挙した崔琰(さいえん)にも見込まれ「いずれは三公の位にまで上るだろう」と言われた。
戦乱で母が行方不明になったが、馬台(ばだい)という者に保護されて無事だった。孫礼は馬台に感謝の意として全財産を譲り渡した。
曹操が袁紹を破り幽州に版図を広げると、孫礼も召し出された。ところが馬台が法を犯し死罪となってしまうと、孫礼は脱獄を手引きし、すぐに自首した。
しかし馬台もそれを聞くと「私だけ逃亡する道義はない」と温恢(おんかい)のもとに出頭した。
温恢は二人の友情に感動し、曹操に取りなして死罪は免れさせた。

孫礼は出世を重ね、郡太守を歴任し、賊の鎮圧で功を立てた。曹休(そうきゅう)が周魴(しゅうほう)の偽装投降に騙された時も、孫礼は危ぶみ深入りを避けるよう進言したという。
その後、尚書となり都に上った頃、皇帝・曹叡(そうえい)は宮廷の増改築に血道をあげていた。
おりしも天候不順により凶作となっていたため、孫礼は工事を中止し民を農業に戻すよう上奏し、認められた。しかし現場を監督していた李恵(りけい)は工事を続行するよう上奏し、争いとなった。
すると孫礼は再び上奏することなく現場に赴き、詔勅と称して強引に工事をやめさせてしまった。曹叡は孫礼の正しさを認め、それを咎めなかった。

この宮廷の増改築は諸臣のほとんどに反対されながらも続行されており、一時とはいえ中止の断を下させたのはきわめて稀である。
孫礼は曹叡の行幸に従った際に、襲いかかってきた虎に馬を降りて立ち向かっており、そのこともあって曹叡の信頼を勝ち得ていたのだろう。
ちなみに「演義」での孫礼の業績はこの虎退治を除いてほとんどが創作であり、単なる脇役に留まっている。

曹叡は危篤になると曹爽(そうそう)に後事を託し、孫礼をその補佐に任じた。
だが孫礼は実直で妥協をしない性分だったため、曹爽には煙たがられ、揚州刺史・伏波将軍とし、関内侯に封じ外に出された。
241年、呉の全琮(ぜんそう)が数万の兵を率いて来襲した。ちょうど多くの兵が休暇に出ており、わずかな守兵しかいなかったが、孫礼は前線に立って迎撃し、大半の兵が死傷し、孫礼の乗騎も負傷したものの奮戦の末にこれを退けた。しかしその後も荊州刺史、冀州牧に任じられ都から遠ざけられた。
冀州では2つの郡の境界争いがかねてから持ち上がっており、司馬懿は孫礼に対策を尋ねた。孫礼は任地に赴く前に解決策を示し、着任するとすぐさま実行に移した。
だがそれは曹爽の意に沿わないものだったため、すぐさま中止するよう横槍が入った。孫礼は処罰もいとわず激しく抗議し、曹爽を激怒させた。5年間の謹慎を命じられたが、諸将の取りなしによって1年で復職した。

当時、匈奴や鮮卑がたびたび国境を侵していたため、孫礼は并州刺史として防戦を命じられた。
出立前に司馬懿のもとに挨拶に出向いたが、孫礼は一言も発しようとはしなかった。
司馬懿は先に冀州牧を解任され、復職してすぐに下位の并州刺史に任じられたことが不満なのだと思い慰めると、孫礼は首を振って「国家の危機が心配なのです」と落涙した。
暗に「なぜ曹爽の専横を黙って見逃しているのか」と批判された司馬懿は、内心では反撃の機会を窺っていたこともあり、もうしばらく耐え忍ぶよう孫礼に告げた。

その後、司馬懿は曹爽一派を誅殺すると孫礼を都に呼び戻した。孫礼は司隷校尉となり、最終的には司空にまで上り詰めた。
韓浩(かんこう)と同じく、政治家としての側面を全く描かれず「演義」で不当に名を落とした名臣である。

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