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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―魏・夏侯淵  三日で五百里、六日で千里



夏侯淵(かこうえん)字は妙才(みょうさい)
豫州沛国譙県の人(162?~219)

~経歴~
魏の将。夏侯惇の族弟。曹操の妻の妹をめとった。
主に前線指揮や兵站、反乱討伐を担当した。迅速な行軍での電撃戦を得意とし「三日で五百里、六日で千里」と讃えられた。

若い頃、曹操の罪をかぶって投獄され、信任を得た。のちに曹操の計略で脱出し刑罰はまぬがれた。
数々の重要な戦に参加し、官渡の戦い、次いで袁氏の討伐では指揮と後方支援を任され、兵站を担当した。
昌豨(しょうき)が反乱を起こすと、于禁(うきん)が討伐に向かったが苦戦していた。代わりに夏侯淵が赴くとたちまち昌豨の陣を10あまり陥落させ、すぐに降伏させた。
その後も黄巾賊の残党や反乱軍と戦っては、大将首を次々と持ち帰った。

馬超が西部で反乱すると、曹操とともに討伐に赴き、いったんは背後に回られ苦境に陥るが、賈詡(かく)の離間の策で勝利した。その後は長安の守備を任され、たびたび攻め寄せた馬超と一進一退の攻防をくり広げる。三度目の襲来では姜叙(きょうじょ)が包囲され、諸将は「馬超は強く曹公の本隊が来なければ勝てない」と主張した。だが夏侯淵は「都までは往復で四千里かかり、殿の指示を仰いでいては間に合わない」と自ら兵を率いて出撃し、馬超を打ち破った。
韓遂(かんすい)との戦いでは、わずかな兵を引きつれ背後に回り、韓遂に協力する羌族の軍を破って優勢に事を進めた。韓遂が引き返してくると諸将は持久戦を提案したが、ここでも夏侯淵は短期決戦を望み、韓遂を破った。
韓遂は部下の反乱で殺され、羌族、氐族は恐れをなし従うようになった。曹操はその後も羌族と交渉する際には夏侯淵の名を出して脅しに使ったという。

漢中を平定すると、曹操はあとの守りを夏侯淵に任せた。しかし蜀を制した劉備が攻め寄せると、数年にわたり防戦したが、蜀軍の勢いはすさまじく、次第に劣勢に追い込まれ、ついに本拠地の定軍山まで迫られた。
夏侯淵は副将の張郃と軍を分けて布陣していたが、劉備は法正(ほうせい)の策で張郃を集中攻撃した。夏侯淵が自軍の半分を救援に差し向けると、法正はすかさず魏軍の逆茂木(馬の侵入を防ぐ柵のような物)を焼き払わせた。夏侯淵が数百の兵で修理に出てくると、その背後を黄忠が襲った。夏侯淵はいったんは脱出したが、いいように振り回されて頭に血が上っていたか、相手が老将と見てあなどったか、反撃に乗り出したが返り討ちにあい、黄忠に斬られた。

曹操は兼ねてから夏侯淵が小勢での行軍と短期決着を好むことを危ぶみ、「大将たるものは臆病さも持っていなくてはならない。進むときには常に知略をもって臨むべきだ」とさとしていたが、その危惧がまさに的中してしまったのだった。

ちなみに夏侯淵は「演義」では弓の名手として知られるが、これは創作である。しかし小勢でたびたび戦果を上げ、多くの敵将を討ち取っており、魏軍でも屈指の武勇を誇っていたことは間違いない。
だが軽挙妄動と評しては言い過ぎだが、単独行を好むきらいがあり、法正も夏侯淵のその欠点を見抜き、夏侯淵の首だけを狙った策を用いており、夏侯淵が死に、後任に慎重な張郃が就くと、劉備も「夏侯淵とは比べ物にならない強敵だ」と、攻撃を止めさせている。
反乱討伐や馬超ら勇猛さを頼りにした相手には無敵の強さを誇った夏侯淵にとって、法正は初めて戦う並外れた策謀家であり、夏侯淵は討たれるべくして討たれたのかも知れない。

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