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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―魏・司馬懿  仲達の野望

  

司馬懿(しばい)字は仲達(ちゅうたつ)
河内郡温県孝敬里の人(179~252)
 
魏の名将。魏王朝の勢力を弱め晋建国の基礎を作り上げた。
『演義』では諸葛亮のライバルとして描かれるため、軍師のような扱いをされるが、史実では司令官、あるいは将軍として活躍しており、また政務には一切携わらず、宰相の位についたこともない武門の人である。

八人兄弟の次男で、八人そろって名前に「達」の字がつき全員が優れていたことから「司馬八達」と呼ばれた。
その中でも司馬懿は随一の人物とうたわれた。性格は苛烈だが内に秘めたまま外には出さず、感情を隠すのが上手かったという。

201年、曹操に招かれたが、後漢王朝の衰退を知り仮病を使って出仕を拒否した。
曹操は刺客を放ち「仮病なら驚いて逃げ出すだろう。逃げ出したら殺せ」と命じた。だが司馬懿は刺客に会っても床に臥したまま動かなかったため難を逃れた。
家の中でも重病で床から立てないふりをしていたが、庭に出ていたところを女中に見られてしまった。すると妻の張春華(ちょうしゅんか)は口封じのためすかさず女中を殺した。以降、司馬懿は妻に畏敬の念を払うようになった。
その後、丞相となった曹操に「首に縄を付けてでもつれてこい」と命じられ、やむなく出仕した。
当初は文官として仕えたが、軍才を認められ従軍するようになった。特に曹丕には気に入られ、曹操は司馬懿の野心を見抜き警戒していたが、曹丕は何かとかばい立てし、司馬懿もまた曹丕の前では慎み深くふるまった。

219年、関羽が北上し樊城を水攻めした。許都の南では次々と関羽に呼応し反乱する者が出た。身近で関羽の勇猛さを見てきた曹操もさすがに狼狽し遷都を考えた。
だが司馬懿と蒋済(しょうせい)は反対し、呉と同盟を結び関羽の背後を襲わせる奇策を立てた。
策は当たり、関羽は討ち取られた。

220年、曹操が死去し曹丕が跡を継ぐと司馬懿はますます重用された。
226年に曹丕が臨終の床につくと司馬懿、曹真(そうしん)、陳羣(ちんぐん)、曹休(そうきゅう)に後事を託した。
曹丕の後継となった曹叡(そうえい)は年若く、また母の甄姫が曹丕に疎まれ殺されたことから、曹叡もまた遠ざけられており、家臣のほとんどと面識がなかったため、内政や軍事は父が信頼した司馬懿らに全面的に任せるしかなかった。

司馬懿は呉軍の諸葛瑾(しょかつきん)、張覇(ちょうは)の侵攻を防ぎ張覇を斬り、また蜀から投降していた孟達(もうたつ)が再び蜀と内通しているのを察知すると、「討伐軍が来るまで1月はかかる」と油断していた孟達を、わずか8日で急襲して斬首するなど多くの戦果を上げ、230年には大将軍に上った。

231年、蜀に対する総司令官だった曹真が亡くなると、司馬懿は後任となった。
諸葛亮が攻め寄せると、防衛に徹したため局地戦では何度も敗れ、功臣の張郃も戦死したが(これは張郃を煙たがった司馬懿が無理な追撃を命じて謀殺したとも言われている)、地理的にも兵力的にも圧倒する魏軍は蜀軍の侵攻を退けた。
234年、五丈原に布陣した諸葛亮は陣中で没した。蜀軍は撤退したが司馬懿が追撃をかけると反撃に乗り出したため、諸葛亮亡き後も備えは磐石だと考え、司馬懿は兵を引かせた。
人々は「死せる孔明生ける仲達を走らす」とはやし立てたが、司馬懿は「生者は相手にできるが死者はどうしようもない」と言った。
また蜀軍の陣地の跡を検分した司馬懿は「諸葛亮は天下の奇才だ」と嘆息したという。

238年、遼東の公孫淵(こうそんえん)が独立し「燕」を建国した。
曹叡は司馬懿に征討を命じ、公孫淵はどんな策を立てるか訊ねた。司馬懿は「城を捨てて逃げるのが上策、河を盾に戦うのが中策、城にこもるのが下策です。公孫淵に知恵があれば城を捨てるでしょうが、そんな頭は持っていません」と答え、「行きに100日、帰りに100日、戦いに100日、休養に60日で1年でかたがつくでしょう」と楽勝を示唆した。
司馬懿が遼東に到着した頃、長雨が続き、臣下は遠征の中止を求めたが、曹叡は「司馬懿は状況に応じて戦略を立てられる。彼に任せておけば問題ない」と取り合わなかった。
公孫淵は呉に援軍を求めたが、先に同盟を反故にされていた孫権が応じるはずもなく「司馬懿を相手にしなければならないとは気の毒な限りだ」と返した。
司馬懿は野戦で公孫淵をたやすく打ち破り、兵糧の尽きた公孫淵は助命を嘆願し人質を送った。
だが司馬懿は「戦には5つの選択肢がある。戦意があるときは戦う。戦意がなければ守る。守れなければ逃げる。あとは降るか死ぬかだ。降伏しないお前には死、あるのみだ」と追い返した。
公孫淵はわずかな兵をつれて城から逃げ出したが、追撃されて斬られた。
遼東には中原の戦乱を避けて移住してきた者が多く、いつ反乱が起こるかわからないと考えた司馬懿は、15歳以上の男子数千人を処刑したという。

曹叡が身を持ち崩し若くして死ぬと、司馬懿は曹真の子・曹爽(そうそう)とともに後事を託された。
だが司馬懿と曹爽は戦の采配をめぐって対立し、遠征にしくじった曹爽は地位に危機感をいだき、曹叡の跡を継いだ曹芳(そうほう)が即位時にまだ8歳と幼いのをいいことに、政治を牛耳りだした。
247年、身の危険を感じた司馬懿は病と高齢を理由に引退した。曹爽は李勝(りしょう)を見舞いに向かわせ偵察させたが、司馬懿は耄碌した芝居を打ったため、曹爽はすっかり油断した。
249年、曹爽が曹芳を伴い、前皇帝・曹叡の墓参りに行くため都を留守にした隙をつき、司馬懿はクーデターを起こした。
都の内外を制し、実権を完全に握った司馬懿に対抗するすべはなく、曹爽の一派は降伏したが、腹心を含め全員が処刑された。

251年、王凌(おうりょう)らが曹操の子・曹彪(そうひょう)を擁立し反乱を企てたが、司馬懿は事前に察知し二人を自害させ、その後は魏の皇族すべてを軟禁し、たがいに連絡を取れないように監視した。
魏の全権を掌握した司馬懿は、同年に没した。
息子たちには「私は野心を見抜かれ、常に謀反を起こすと疑われていたので、そのような疑いを抱かれないよう気を配ってきた。お前たちもうまく国を治めるよう慎重に行動しなさい」と言い遺した。
オリジナリティの少ない『横光三国志』では珍しく「敵ながら諸葛孔明はすばらしい男だった。あの世ではゆっくりと教えを請いたい」と印象深い言葉を遺している。

司馬懿の二人の息子は相次いで魏を牛耳り、265年、孫にあたる司馬炎(しばえん)がついに禅譲を強いて晋を建国した。
司馬懿は180度首を回せ、真後ろを向くことができた。それを見た曹操は「あれは狼顧の相といい、遠大な志を抱いている証拠だ。司馬懿は誰かに仕えるような男ではない」と警戒しており、その予見が的中した形となったのである。

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