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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―魏・司馬師  司馬家の麒麟児・兄


 
司馬師(しばし)字は子元(しげん)
河内郡温県孝敬里の人か(208~255)

~経歴~
魏を牛耳った重臣。司馬懿と張春華(ちょうしゅんか)の子、司馬昭(しばしょう)の兄。

沈着冷静で容姿に優れ、若い頃から声望高く、清流派の名士・何晏(かあん)は常々、「ただ司馬師だけが天下の務めを果たすことができる」と称えていた。

三代皇帝・曹芳(そうほう)が幼いのをいいことに専権をふるっていた曹爽(そうそう)の目を逃れるため、司馬懿は耄碌したふりをし隠居していたが、裏では司馬師とともにクーデターの計画を練っていた。
その計画は司馬昭にすら極秘とされ、司馬昭は「兄が何を考えているのかわからない」と戸惑うほどであった。
249年、決行の日。司馬師は司馬孚(しばふ 司馬懿の弟)とともに三千もの兵を密かに集め、速やかに都の内外をおさえたため、司馬懿も「子元もやるようになった」と舌を巻いたという。
その後は曹爽をはじめ曹一族を一掃した司馬氏が魏の実権を握り、251年、父が亡くなると跡を継いだ。

252年、諸葛誕(しょかつたん)、胡遵(こじゅん)らに呉を攻めさせたが、諸葛恪(しょかつかく)指揮下の丁奉(ていほう)の強襲により、魏軍は大敗した。
翌253年、勢いをかった諸葛恪が合肥新城を包囲すると、呉の重臣たちは騒然となったが、司馬師は「諸葛恪は実権を握ってから日が浅く、目先の利に動かされているだけだ。徐州や青州まで脅かされる恐れはない。お前たちは兵を分けて河口を守れと言うが、河口は一つだけではない。全部を守るにはいくら兵がいても足りない」と余裕を見せると、司馬孚、毌丘倹(かんきゅうけん)、文欽(ぶんきん)に20万の兵を預けて援軍に向かわせた。
毌丘倹らは攻撃を求めたが、司馬師は「諸葛恪は敵地に深入りし過ぎて進むことも退くこともできない。合肥新城は小城だが守りやすく、攻め落とすことはできない」と防衛を命じた。
司馬師の読みどおり、諸葛恪は数ヶ月にわたり力攻めをしたが、合肥新城は落とせず、疫病で多くの兵を失い撤退した。
だが戦後、毌丘倹は「我々は百日にわたり昼夜を分かたず戦い抜きました。魏の建国以来、これほどの苦難は存在しなかったでしょう」と報告しており、司馬師の見通しは少々甘かったようにも思える。

254年、曹芳は李豊(りほう)、夏侯玄(かこうげん)らに司馬師の暗殺を命じた。
それを察知した司馬師は李豊を詰問した。観念した李豊は口を極めて司馬師を罵ったため、激怒した司馬師は李豊の腰を強打させて殺し、夏侯玄らも捕らえて三族皆殺しとした。
さらに曹芳を荒淫のかどで退位に追いやり、曹髦(そうぼう)を後継とした。ちなみに曹芳は阮籍(げんせき)にも荒淫ぶりを皮肉った詩を詠まれており、あながち難癖というわけでもない。

255年、毌丘倹と文欽が6万の兵を率い反乱を起こした。
司馬師が鍾会(しょうかい)らに乞われて自ら討伐に赴くと、戦わずして毌丘倹の配下は次々と降伏した。
諸将がそれに乗じてさらに兵を進めようとすると、司馬師は押しとどめ「諸君らは其の一を心得ているが、其の二を知らない。毌丘倹らは反乱を起こせば四方の兵が応じると考えていたが、実際には戦う前から降る者が続出している。だがここで兵を進めたら、かえって反乱軍は結束して立ち向かってくるだろう。彼らが瓦解するのを待ち、戦わずして勝つべきだ」と言った。

そして司馬師は王基(おうき)に補給線を断たせ、諸葛誕(しょかつたん)には退路を封じさせ、さらに艾(とうがい)を陽動に使い、大軍を敵の背後に回した。
それに対し文欽の子・文鴦(ぶんおう)は弱冠18歳ながら勇猛で知略に富み、父とともに魏軍を夜襲する作戦を立てた。
だが文鴦は攻撃を仕掛けたものの、文欽の軍が現れずやむなく撤退した。
司馬師が追撃をかけると、殿軍を務める文鴦は十数騎で魏軍に突撃し、司馬師の本陣にまで肉薄すると、目を患い手術したばかりの司馬師は、驚きのあまり片目が飛び出してしまった。それでも司馬師は指揮をとり続け、反乱軍を破った。
毌丘倹は逃亡したが捕らえられて斬首され、文欽父子は呉へと亡命した。
反乱に乗じて呉の孫峻(そんしゅん)が攻め上がったが、諸葛誕、艾らが迎え撃ち、宿将の留賛(りゅうさん)を討ち取って撃退した。

だが帰国した司馬師の病状は悪化し、弟の司馬昭に後を託し、死去した。

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