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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―魏・司馬孚  善良すぎる弟



司馬孚(しばふ)字は叔達(しゅくたつ)
河内郡温県の人(180~272)

魏の臣。司馬朗(しばろう)、司馬懿ら八人兄弟の三男にあたる。
きわめて温厚かつ誠実な性格で他人を恨んだことも、恨まれたこともない、とまで評された。

曹操に仕えると文才を認められ、曹操の子で「詩聖」とうたわれた曹植(そうしょく)の下につけられた。
父に似て奔放な性格の曹植をたびたび諫言したためはじめは煙たがられたが、後に非を認め厚遇された。
曹操が没すると曹丕や諸臣らがあまりに激しく嘆き悲しんだため、曹丕には「あなたは天下の規範となるべき方なのだから、凡人のように過多な哭礼はやめよ」と諫め、諸臣には「魏王(曹操)を失い混沌の極みにあるのに泣いている暇があるのか」と叱咤したという。

曹丕も没し曹叡(そうえい)の代になると、諸葛亮がたびたび北伐の兵を興し国境を侵したため、魏はその対処に悩まされた。
曹叡は司馬懿を蜀方面の司令官に任じ、司馬孚を度支尚書という軍事財政専任の職に抜擢すると、二人は目覚ましい活躍を見せ「二人の司馬懿を得た」と曹叡を喜ばせた。

249年、曹芳(そうほう)の代に一族の曹爽(そうそう)が専横を極めると、司馬懿は隙をついて決起し曹爽一派を一網打尽にした。
司馬孚も司馬懿の子の司馬師・司馬昭らとともに協力し、その後は要職に上った。
政治だけではなく253年、呉の諸葛恪(しょかつかく)が大軍で合肥新城を攻めると、20万と称する援軍を率いて出撃するなど軍事でも重きを置かれた。

司馬氏は曹氏に代わり魏の実権を握ったが、司馬孚は権力に興味を持たず、魏への忠誠厚く常に帝室を重んじていた。
260年、第4代皇帝・曹髦(そうぼう)が司馬氏を討とうと兵を起こすも返り討ちにあった際、司馬孚は遺体に取りすがり号泣した。
司馬昭が曹髦を庶民と同じ格式で葬ろうとすると、司馬孚は敢然と反対し、それを命じた皇太后に直談判し王侯の格式で葬る許可を取り付けた。
司馬孚の行動は一族の中では異端だったが、司馬昭らは長年にわたり多大な貢献をしてきた叔父を尊重し、それを咎めることはなかった。

265年、司馬昭の子・司馬炎がついに帝位を奪うと、司馬孚は前皇帝・曹奐(そうかん)の手を握り「私は死ぬ日まで魏の臣下です」と涙ながらに謝した。
司馬炎も父にならい司馬孚を高位につけたが、魏を失った司馬孚は鬱々として楽しまず272年、93歳で没した。
その葬儀は後漢の王と同等の国葬として行われ、以降の王朝でも参考にされるほど盛大なものだったという。

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