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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

三国列伝―魏・劉廙  水鏡先生に頭を撫でられる

劉廙(りゅうよく)字は恭嗣(きょうし)
荊州南陽郡安衆の人(180~221)

魏の臣。
「魏書」に列伝される。

10歳の時、学堂で遊んでいて司馬徽(しばき)に「坊や、易の道理を知っているかい」と頭を撫でられた。
兄の劉望之(りゅうぼうし)は名声高く、荊州牧の劉表(りゅうひょう)に仕えたが、直言をはばからなかったため疎まれ、劉廙が身の危険を訴えたが聞き入れず、結局殺されてしまった。
劉廙は揚州へと逃れた後に曹操へ仕えた。
曹丕の側近になると信任され、書状を送る時は草書で構わないと許され、恐縮した。
213年、魏が建国されると黄門侍郎に任じられた。

215年、曹操が益州制圧へ乗り出すと、故事を引いて反対したが、聞き入れられなかった。(『劉廙伝』)

219年、魏諷(ぎふう)の反乱に加担し弟の劉偉(りゅうい)が処刑された。劉廙も処刑されかかったが、陳羣(ちんぐん)が減刑を願い出て、曹操も同意し連座を免れた。
劉廙は感謝したが陳羣は「国家のためであり君のためではない。減刑を決めたのは明君(曹操)の意向である。私は何も関知していない」と取り合わなかった。(『劉廙伝』・『陳羣伝』)

劉廙はかねてから弟に「魏諷は徳行を修めずに人を集め、花があっても実がない。ただ世の中をかき乱し名を売るだけの者だ」と交際を断つよう命じていたという。

劉廙は上奏して助命の礼を述べるとともに、「州郡の首長の異動を減らし、一年ごとに能力を調査し、三年で総括させ、処遇を決めます。能力は評判ではなく、戸籍に対しての耕田の数や、盗賊の発生件数、人口における反逆者の比率などを計算し、事実に基づくべきです」と進言し、曹操を感心させた。

丁儀(ていぎ)と刑罰や儀礼について議論した書物など、数十篇を著し全て世に伝わった。
220年、曹丕の代になると侍中となり、関内侯に封じられた。(『劉廙伝』)

曹丕へ重ねて禅譲を勧める上奏に連名した。毎回のように名が記され、中心人物の一人と見られる。(『文帝紀』)

翌221年に没した。享年42。
子がなかったため甥の劉阜(りゅうふ)が後を継いだ。(『劉廙伝』)

呉の謝景(しゃけい)は同郷の劉廙の「礼よりも刑罰を優先すべきだ」という意見を讃え、陸遜に「劉廙は小賢しい議論で先人の教えをたばかっている。あなたは太子に仕えているのだから、仁と義に基づいた徳を教えるべきで、そんな話を聞かせてはいけない」と強く叱られた。(『陸遜伝』)

256年、呉の刁玄(ちょうげん)は司馬徽と劉廙が行った国家と帝位の行く末についての議論を手に入れ、それを改竄し「最後に天下を制するのは荊州・揚州の主君だ」と記した。
孫皓はこれを読んで気を良くし、さらに中原で「呉の天子が間もなく上ってくる」という歌が流行していると聞き、一族を引き連れ洛陽に向かった。
ところが大雪に遭い、兵士たちが反乱を企てたためあわてて引き返した。(『孫皓伝』※ただしこの逸話は創作も多い「江表伝」に記されている)

また「演義」では華歆(かきん)とともに宮中へ押し入り、献帝に禅譲を迫るダーティーな役割を振られた。

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