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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝――魏・賈逵  三国一の地味男



賈逵(かき)字は梁道(りょうどう)
河東郡襄陵の人(174~228)

魏の臣。名家に生まれたが幼少期に両親を亡くし、貧困にあえいだ。しかし逆境の中でも勉学に励んだため祖父からは「大人になれば将軍に出世するだろう」と見込まれた。

河東郡の役人をしていた時、袁尚(えんしょう)軍の郭援(かくえん)が攻め寄せてきた。周囲の県が次々と降伏する中、賈逵だけは抵抗を続けたが、郭援は匈奴からも援軍を呼び、いよいよ落城は免れなくなった。
善政を敷いていた賈逵は民衆から慕われていたため、彼らは郭援に賈逵の助命嘆願をした。感心した郭援は賈逵を配下にしようとしたが、逆賊には従わないと罵られたため殺害しようとした。だが民衆や郭援の配下すら弁護に務めたため、断念した。
賈逵はやむなく郭援に降ったが、助言と見せかけて進軍を遅らせたり、兵を分散させてその勢力を弱めさせた。
そして曹操の依頼を受けた馬超の援軍が駆けつけると、郭援は討ち取られた。

賈逵の働きは孫資(そんし)によって採り上げられ、澠地の県令に昇進した。
だが205年、高幹(こうかん)が反乱し、張琰(ちょうえん)がそれに呼応しようとした。たまたま張琰に面会していた賈逵は反乱の気配を察すると、あたかも協力者のように振る舞い、言葉巧みに騙して兵を借り受け、澠地城の城壁を修理させると、そのまま籠城した。
張琰は激怒して攻め寄せたが防備を破れず、やがて曹操の援軍が駆けつけ張琰を討ち取った。賈逵は裏で反乱に加わっていた人々の名を明かし捕らえさせた。

その後、祖父が没したため官を辞していたが曹操に招聘された。
弘農太守の代理に取り立てられ、曹操は「太守がみな賈逵のようであれば何も心配しなくていいのだが」と言うほど評価し、屯田都尉と衝突し免職となった時も、すぐに復職させた。

220年、曹操が没すると葬儀の責任者を務めた。三男の曹彰(そうしょう)が駆けつけるなり曹操の印綬の在り処を尋ねたため、賈逵はそれを激しく叱責し、改心させた。
曹丕の代には豫州刺史に上り、曹丕が遠征する際には祭酒(軍師)を務めた。豫州の統治が緩んでいたため綱紀粛正に努め、他州の統治の手本にされたという。
また豫州は呉と国境を接していたため、賈逵は軍備を整えるため二百里にも及ぶ大運河を築いた。この運河は「賈侯渠」と呼ばれ、呉の進軍をたびたび阻んだ。

228年、呉の周魴(しゅうほう)が寝返りを申し出ると、呉方面軍司令の曹休(そうきゅう)はそれを信じ、賈逵は罠だと主張した。
曹休はかねてから賈逵を憎んでおり、それを無視して進軍し、周魴の罠にはまった。
賈逵の援軍が駆けつけ窮地を脱したが、曹休は敗戦の責任を賈逵に押し付けようとしたとも、救援が遅かったから負けたと讒言したともいう。

曹休は間もなく病により急死し、賈逵もまた前後して急病により没した。享年55。
跡を継いだ子の賈充(かじゅう)は、司馬師・司馬昭ら司馬一族の腹心として活躍し、後に晋の建国に大いに貢献している。

「演義」では周魴の偽装投降の際が唯一の登場シーンだが、窮地を救われた曹休は非を認め賈逵に謝罪するというアレンジがされている。

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