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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝――魏・于禁  散々な晩年

  

于禁(うきん)字は文則(ぶんそく)
兗州泰山郡鉅平県の人(?~221?)

魏の名将。
はじめは同郷の鮑信(ほうしん)に従い、董卓と戦った。
192年、鮑信が戦死すると交友のあった曹操に仕え、大将軍の資質があるとすぐに上官に推挙された。
草創期の戦で常に大功を立て、陶謙(とうけん)、呂布、張超(ちょうちょう)、袁術(えんじゅつ)の兵を撃破し、袁術配下の大将である橋蕤(きょうずい)や黄巾賊残党の黄邵(こうしょう)の首を挙げた。

197年、曹操は張繍(ちょうしゅう)を降伏させたが、その参謀である賈詡の献策により反乱を起こされ、長男の曹昂(そうこう)や典韋が戦死した。
全軍が混乱するなか、于禁の軍だけは追撃する張繍軍と戦いながら撤退したため、大きな被害を出さなかった。
この時、曹操麾下だが黄巾賊の残党である青州兵が、混乱に乗じて味方に略奪を働いた。于禁が激怒してそれを攻撃すると、青州兵は曹操に被害を訴え出た。
周囲の者は于禁にすぐ弁明に赴くよう進言したが、于禁はそれを無視して陣営を築き、張繍軍を迎撃する準備を整えてから曹操のもとに出向き弁明した。曹操は于禁の判断の正しさを認め、青州兵の訴えを退け、戦後には列侯した。

199年、袁紹との官渡の戦いでは先陣を務めた。
兵力で劣る曹操は前線を後退させたため、于禁は楽進(がくしん)とともに延津に孤立したが、攻め寄せる袁紹軍を何度となく撃退した。
曹操の本隊が後方で蜂起した劉備を破り再び前線に戻ると、于禁は別働隊を率いて袁紹軍に大打撃を与え、勝利に貢献した。

博望坡の戦いでは劉備軍に敗れ、李典(りてん)に窮地を救われたものの、その後は反乱討伐で活躍する。
昌豨(しょうき)が反乱すると、于禁が鎮圧を命じられた。昌豨は包囲されると于禁が旧友だったため、それを頼りに降伏したが、于禁は「包囲後の降伏は認めない」という軍規を守り、涙ながらに自ら昌豨を処刑した。
曹操はその判断を褒めながらも于禁の胸中を慮り、別の者に鎮圧を命じれば良かったと後悔したという。

于禁は張遼、徐晃、張郃、楽進らと並び称され、遠征のたびに彼らが代わる代わる先鋒や殿軍を務めた。
朱霊(しゅれい)も彼らに匹敵する働きを見せたがある時、曹操の怒りを買い兵権を没収された。朱霊の配下は不満を抱いたが、剛毅かつ清廉で知られる于禁が兵権を引き継いだため反抗せずに従った。朱霊は于禁の配下に付けられたが、その際にも問題は起こらなかった。
于禁は左将軍にまで上り詰め、曹操直属の武官の中では楽進と並び筆頭格で、曹一族を含めても夏侯惇に次ぐ地位にあった。

219年、荊州の関羽が北上し、曹仁の守る樊城を包囲した。
于禁が救援に赴いたが、関羽の水攻めにより漢水が氾濫し、3万の兵とともになすすべも無く捕らえられた。
副将の龐徳は降伏を拒み処刑されたが、于禁は捕虜として生き長らえることを選んだ。
一報を聞いた曹操は「私に30年仕えた于禁が窮地に及んで龐徳に劣るとは思わなかった」と嘆息したという。

関羽はその後も優勢に兵を進めたが、同盟国の孫権の裏切りにより孤立し戦死した。于禁ら3万の捕虜を抱えていたため兵糧の確保に苦慮していたとされる。
于禁の身柄は孫権のもとに移され、賓客として遇されたが、孫権の重臣の虞翻(ぐほん)は事あるごとに于禁を公然と批判した。
しかし于禁は帰国後に虞翻の態度を賞賛したという。

221年、孫権は魏に従属の姿勢を見せ、于禁ら捕虜を魏へ送り返した。
曹操はすでに亡く、後を継ぎ皇帝となっていた曹丕は于禁を引見すると、曹操の墓参りをするよう勧めた。
墓所には于禁が関羽に降り、龐徳が処刑される様を描いた絵が飾られていた。于禁は激しい怒りと自責の念から病を発し、間もなく没した。
死後、厲侯と諡されたが「厲」は虐殺や災難といった意味がある不名誉なもので、曹操の霊廟に祀られた魏建国の功臣にも列せられていない。

「演義」での于禁は晩節を汚した最期から逆算したように、当初から小物化が図られ、また史実では生存している劉琮(りゅうそう)を暗殺したり、龐徳の手柄を横取りしたりと、悪役として描かれている。

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