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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです。三国志の全登場人物を1日1人以上紹介中。リニューアル中のページは見られない場合があります

三国列伝―隠者・焦先  いやその理屈はおかしい

焦先(しょうせん)字は孝然(こうぜん)
司隸河東郡の人(??~??)

隠者。

「魏略」に曰く。190年、20余歳の時に白波黄巾軍を避けて、同郷の侯武陽(こうぶよう)とともに揚州へ疎開し、妻を娶った。
196年、河東郡へ帰り侯武陽は大陽県に家を構えたが、焦先は境に留まった。
211年、馬超らの蜂起により関中は大混乱に陥り、焦先は家族を失い、黄河の河原で草をはみ、衣服さえない暮らしを始めた。
大陽県長の朱南(しゅなん)は彼を見かけると逃亡者だと思い逮捕しようとしたが、侯武陽は狂人だと弁護し、穀物が支給されるように取り計らってやった。
後に伝染病により多くの死者が出ると、焦先は埋葬を命じられ、子供にさえ軽蔑された。しかし彼は気にすることなく大通りを闊歩し、一方で慎み深く、飢えも寒さも我慢し、道で人に行き合えば「草むらに住む私は狐や兎の仲間だ」と物陰に隠れて姿を見せまいとした。瓜牛廬(カタツムリの殻のような小屋)を作って寝起きし、空腹になると日雇い労働をし、食事だけ得て賃金は返した。

嘉平年間(249~254)に赴任した河東太守の賈穆(かぼく)は、焦先を訪ね、食事を出したが彼は話しも食べもしなかった。
賈穆が「国家は私をあなたの主君として遣わしたのに、あなたは話しも食べもしない。主君として不適当だから辞任しなくてはなるまい」と言うと焦先は「いやその理屈はおかしい」とだけ言った。

翌年、魏が呉を攻めると、ある人が焦先に意見を求めた。焦先は意味のわからない歌を返した。魏軍が敗北すると、この歌はそれを予言したものだと考えられ、焦先は狂人ではなく隠者だと持ち上げられた。

河東郡の董経(とうけい)は奇矯な人物を好んだため、焦先に会いに行き「先ちゃん久しぶりだな。白波黄巾軍から逃げたことを覚えているかい」と旧友のように振る舞った。董経は侯武陽が彼を助けた逸話を知っていたため、黙ったままの焦先に「武陽を覚えているか」とさらに尋ねた。焦先は「もう彼には恩を返した」とだけ答え、それきり黙った。
それから1年余りして89歳で病没した。

「高士伝」には別の事績が記される。
焦先は天涯孤独の身で、漢王室の衰退を見てから口を利かなくなった。220年、漢が滅びると黄河の岸に小屋を建て、全裸で寝起きし、数日に一度、日雇いをして食事を摂るだけの生活をした。
河東太守の杜恕(とじょ)は衣服を贈ろうとしたが、無言を通された。
噂を聞いた司馬師は董経を送ったが、やはり話せなかった。
その後、火事で小屋を失うと建て直さず地べたで寝起きした。大雪の日にもそのままで、見つけた人は凍死したと思い近づくと、焦先は寒さを気にもしていなかった。百余歳で亡くなった。

「高士伝」を著した皇甫謐(こうほひつ)は、焦先とはどんな人物だったのか尋ねられ、「人間は栄誉を求め、衣服・家・言葉・家族を捨てられない。焦先はその全てを捨て、天地を家として現実を抜け出し、他人も四海の広大さも彼の興味を惹かない。人類の歴史で彼の境地に至った者はいない」と述べた。

また「魏氏春秋」に曰く。耿黼(こうほ)は焦先を仙人だと考え、傅玄(ふげん)は鳥獣と同じ性情だと評し、二人とも焦先の伝記を書いたが、彼を理解することはできなかったという。(『管寧伝』)

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