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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―蜀・費禕  深酒はほどほどに



費禕(ひい)字は文偉(ぶんい)
荊州江夏郡鄳県の人(?~253)

蜀の臣。
両親を早くに亡くしたため一族の年長者である費伯仁(ひはくじん)に身を寄せた。
費伯仁の姑は益州牧の劉璋(りゅうしょう)の母に当たるため、戦乱を避けて益州に移り住み、費禕もそれに従った。
ちょうどその頃、劉備が益州を制圧したのでそれに仕え、友人の董允(とういん)とともに太子・劉禅の補佐に任じられた。

ある時、董允の父の董和(とうか)は並び称されていた費禕と息子のどちらが優れているか試そうと、葬儀の際にわざと粗末な馬車に二人を乗せた。費禕は意に介さず堂々としていたが、董允は面目を失っていた様子なのを見て、董和は「優劣が今日明らかになった」と述べた。
また董允は費禕が仕事の合間に客を呼び、博打や酒に興じているのを見て、自分もそれを真似てみたところ数日もせずに職務が滞った。
董允は「一日中働かなければ全く追いつかない。人間の能力にここまで差があるとは思わなかった」と感嘆したという。

諸葛亮にも早くから才能を見込まれ、呉への使者となった時には、孫権はその人物を試そうと酒で酔い潰した後に諸葛恪(しょかつかく)らに論戦を挑ませた。
費禕は泥酔を理由にその場は引き取ったが、後日に質問を箇条書きにして答え、その全てが理にかなっていたため孫権は「君はいくばくもしないうちに必ず蜀の中心人物になる」と評価した。

227年、諸葛亮が北伐を始めるとその補佐を務めた。当時、魏延と楊儀(ようぎ)の仲は険悪で、魏延が白刃で脅し、楊儀を泣かせることさえあったが、費禕が間に入り仲裁したため大きな破綻は生じなかった。
だが諸葛亮が没すると魏延は謀叛を企み討伐され、楊儀は蔣琬(しょうえん)に諸葛亮の後継者の座を奪われたことを恨み「こんなことになるなら魏へ寝返れば良かった」と費禕にぼやいたのを密告され、平民に落とされた末に自害と、両者は自業自得から相次いで命を落とした。

蔣琬が病を得ると代役として活躍し、没すると蜀の全権を委ねられるようになった。
費禕に次ぐ地位を得ていた姜維は、諸葛亮の悲願を継ぎ北伐を願い出たが、費禕は「丞相(諸葛亮)でさえ魏に勝てなかったのに我々ではとうてい無理である」と反対し、もっぱら内政に力を注ぎ多くの兵を与えなかった。

244年、魏軍が漢中に侵攻したため費禕は迎撃の準備を整えた。出撃の直前に来敏(らいびん)が訪ねてきて囲碁をしようと誘うと、費禕は喜んでそれに応じた。
すでに将兵は甲冑を身に着けていたが、費禕は全く慌てず囲碁に興じ、来敏は「あなたを試してみたが、これなら安心して戦を任せられる」とその度胸に感服し、はたして費禕が前線に到着しただけで魏軍は撤退した。

253年、正月の宴会中、魏からの降将である郭循(かくじゅん)に突如として刺殺された。
張嶷(ちょうぎょく)はかねてから費禕のあけすけな性格と、降将であろうと警戒せずに接する姿勢を危惧し、書状で警告していた。
すでに董允も没しており、もはや姜維の北伐を止める者も、蜀の全権を担う者も無く、黄皓(こうこう)ら宦官の台頭した以降の蜀は急速に衰退していくこととなる。
人々は諸葛亮を筆頭にその死後に蜀を支えた蔣琬、費禕(ひい)、董允を「四英」あるいは「四相」と讃えた。
また奔放な性格だったが私欲は持たず、質素な暮らしぶりで余分な財産は無かったとされる。

その最期から後世の人々の評価は二分され、陳寿は諸葛亮の業績をよく受け継いだと讃えつつも、公務を離れた身の処し方が甘かったゆえに頓死を招いたと批判し、裴松之は宰相としての働きと比べれば私的な振る舞いの問題は瑣末なことだと言いつつも、魏書で郭循に触れた際には「費禕は中程度の才しか無いのだから道連れにしても無駄死にである」と切り捨てている。

「演義」ではそれなりに出番はあるが、諸葛亮、蔣琬の後継者としての活躍は全く描かれずいつの間にかフェードアウトしている。
一方「吉川三国志」では(諸葛亮死後は小説の形態ではなくただのあらすじとして書かれているだけだが)その最期に触れられ「横山三国志」では郭循に刺殺されるシーンが描かれた。

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