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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―蜀・譙周  陳寿の師匠



譙周(しょうしゅう)字は允南(いんなん)
巴西郡西充国の人(?~270)

~経歴~
蜀の臣で儒学者。
誠実で儒学のほか天文にも明るかったが、風貌が冴えず、当意即妙の受け答えをする機転もきかなかったので、なかなか出世の道がひらけなかった。
だが諸葛亮に才能を認められると、二代皇帝・劉禅(りゅうぜん)の教育係に抜擢された。政治に携わることはなかったが、学問・教育面で重職を歴任した。
非常に滑稽な容姿をしており、諸葛亮に初めて会ったとき、左右の者は譙周の顔を見て思わず笑ってしまった。ある者が「笑った者を処罰しましょう」と訴え出ると、諸葛亮は「私も我慢できなかったくらいなのだから、他の者がこらえられないのも無理はない」と退けた。あの諸葛亮が笑うほどだから相当の風貌だったのだろう。
自分を見出してくれた諸葛亮への感謝の念は深く、成都にいた譙周はその死を聞くとすぐさま家を飛び出したので、動揺をおさえるための外出禁止令が出されるよりも前に、諸葛亮のもとにたどり着いたという。

姜維の代になると、「仇国論」を著して無謀な北伐を諌めたが、その訴えが聞き入れられることはなかった。
魏の鄧艾(とうがい)が都に迫ると、もはや抗戦するすべはないといち早く降伏を唱えた。司馬昭(しばしょう)は喜び、劉禅と譙周を都に招き、候に封じて手厚くもてなした。

269年、譙周の弟子である陳寿(三国志の著者である)は休暇のあいさつに訪れた。譙周は「孔子は72歳で、大学者の劉向(りゅうこう)、楊雄(ようゆう)は71歳で没した。私も彼らに習うだろう」と翌年の死を予言し、はたしてその通りになった。その他にも魏の帝位簒奪や司馬昭の急死を予言しており、譙周は予知を会得していたのだろうと陳寿は述懐している。このように史書に著した当人が出ることは非常にまれであり、特別扱いするほど陳寿は譙周に傾倒していたのだろうと思われる。

ちなみに吉川英治の「三国志」では周譙と誤って記されており、「張郃3回死んでる事件」とあわせて「吉川実は三国志詳しくない説」の証拠としてあげられがちである。

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