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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―蜀・諸葛瞻  二代目は凡人



諸葛瞻(しょかつせん)字は思遠(しえん)
琅邪郡陽都の人(227~263)

~経歴~
蜀の将。諸葛亮の子。

母親は不明。父の諸葛亮は最後の北伐となる234年の出陣の際、呉に仕える兄・諸葛瑾(しょかつきん)に手紙を送り、その中で8歳になる諸葛瞻の利発さを讃えながらも、早熟に過ぎて大成しないのではないかと、父親らしい心配を書き連ねている。
父が亡くなると跡を継ぎ、周囲の期待を一身に浴びて出世を重ねた。父譲りの優れた記憶力を持ち、書画に巧みで誰からも慕われた。特に民衆からの人気は高く、人々は政治でなにか良いことがあると諸葛瞻のおかげだともてはやしたため、実力以上の名声を集めるようになった。

261年頃には董厥(とうけつ)らとともに政権の中枢に立った。
しかし当時は皇帝・劉禅(りゅうぜん)の寵愛を受けた宦官の黄皓(こうこう)が実権を握っており、諸葛瞻らも黄皓とよしみを通じた。
軍権を握る姜維は黄皓といがみ合っており、たがいに相手を追い落とそうと画策していた。
諸葛瞻、董厥らも協力し、黄皓と昵懇の仲だった閻宇(えんう)を後任に据えようとしたが、果たせなかった。
姜維は黄皓を失脚させられないと悟ると、前線に出たまま都に戻らなくなった。

263年、鄧艾(とうがい)、鍾会(しょうかい)らの率いる魏の大軍が蜀に侵攻した。
姜維は剣閣にこもりよく防いだが、鄧艾は間道を通り成都を急襲しようとした。
諸葛瞻は命を受けて迎撃に乗り出したが、積極的に戦おうとはしなかった。業を煮やした黄崇(こうすう 呉に降った黄権(こうけん)の子)は涙ながらに進軍を請うたが、諸葛瞻は応じず、その間に鄧艾の軍は前線を突破した。
鄧艾は降伏を勧告したが、諸葛瞻はその使者を斬り捨てるとようやく戦いに乗り出した。
しかし鄧艾の猛攻の前に屈し、息子や黄崇、張遵(ちょうじゅん 張飛の孫)らとともに戦死した。

陳寿の「実力以上の名声を得ていた」という評は、ながらく「正史」に対する「諸葛亮に父を処刑されたことを恨んでいるから出た評であり平等ではない」という批判を呼んだ。
だが事績を見るかぎり諸葛瞻に対する陳寿の評は的確だと思える。そうした批判を呼ぶほど諸葛亮孔明の名声が図抜けて高かった、ということだろう。

なお「演義」での諸葛瞻は黄皓の専横に抗議して、仮病を使い家にこもっていたが、魏軍の侵攻に際し出撃して戦死した、ということにされ、ここでも美化が見られる。

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