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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝―蜀・劉禅  暗君・阿斗



劉禅(りゅうぜん)字は公嗣(こうし)
荊州新野の人(207~271)

~経歴~
蜀の二代皇帝。劉備の子。幼名は阿斗(あと)。張飛の娘の姉妹(無双シリーズの星彩のモデル)を夫人とした。

父の劉備が、荊州の劉表(りゅうひょう)に身を寄せていた頃に生まれた子。
1歳の時、南下した曹操軍に劉備軍は撃破された。その際、劉禅は敵中に取り残されたが、趙雲によって救い出された。「演義」では長坂坡の戦いとして大いに脚色され、見せ場の一つである。

劉備が漢中王の座につくと、劉禅は太子として立てられた。なお劉禅の上には劉備の養子である義兄の劉封(りゅうほう)がいたが、若くして勇猛だったため、後継者争いを危惧した諸葛亮によって敗戦のかどで処刑されている。
223年、父が亡くなると17歳で跡を継いだ。その際に劉備は諸葛亮を父と思うように告げ、また諸葛亮には「劉禅が皇帝にふさわしくなければ、君が皇帝になれ」とまで言い遺した。諸葛亮も亡くなると、彼が謀叛を企んでいたと讒言する者があったが、劉禅は激怒してその者を処刑するなど、遺言によく従い、諸葛亮を敬った。

劉禅は暴政こそ敷かなかったが(というよりも政務に携わった形跡がほとんどない)政治は蒋琬(しょうえん)、費禕(ひい)、董允(とういん)らに任せて、自身は遊興にふけった。
蒋琬らが相次いで亡くなると、宦官の黄皓(こうこう)を寵愛し、いよいよ好き放題に振る舞い出した。
軍権を握る姜維はたびたび諫言し、黄皓を暗殺しようともしたが、黄皓は諸官を抱き込んで姜維を失脚させようとしたため、無為を悟った姜維は前線に出たきり都に戻らなくなった。

263年、魏の鄧艾(とうがい)、鍾会(しょうかい)らが蜀征伐の大軍を率いて攻め寄せた。
姜維は要害にこもりよく防いだが、劉禅は黄皓と占い師の言葉を信じて援軍を送らず、その隙に鄧艾は迂回して首都の成都に迫った。
南中や呉への逃亡も検討されたが、劉禅は降伏を選んだ。その際にはしきたりに則り、自身を縛り上げ、棺桶を担ぎ艾を迎えたという。
またこのとき、息子の劉諶(りゅうじん)は国に殉じて自害している。

翌年、姜維は鍾会をそそのかして反乱を起こしたが失敗し、多くの旧臣を失った。
劉禅は罪に問われることなく、郤正(げきせい)らわずかな伴をつれて洛陽に送られた。
あるとき宴会で蜀の音楽が流されると、蜀の旧臣は涙したが、劉禅は「毎日が楽しく故郷を思い出すことはない」と笑っていた。
郤正が「こういうときは故郷を思って悲しまない日はありません、と言うものです」と諫めると、劉禅はそれをおうむ返しに言った。
司馬昭(しばしょう)が「郤正の言葉に似ていますな」とからかうと、劉禅は「そのとおりです」と驚いたように答え、周囲の者を唖然とさせたという。

271年、65歳で没した。長子は姜維の反乱に巻き込まれて亡くなっていたが、劉禅は次男を差し置きかわいがっていた六男に跡を継がせた。
だがその六男は道義にもとる振る舞いをたびたびした末、謀叛に関与して一族皆殺しとなった。


~劉禅は暗君だったのか~
劉禅は「演義」で主人公格の蜀を滅ぼした元凶とされ、また創作で暗愚ぶりを強調されているため激しく嫌われており、像を何度となく壊されているという。幼名の阿斗は中国では阿呆の代名詞とされ、その阿呆という言葉も阿斗が語源であるという説まである。
だが宴席でのやりとりなどは信憑性が薄く、事績だけを見る限り(単に何もしていないだけとも言えるが)、在位中に民を苦しめたことはなく、大きな反乱も起きなかった。
お人好しであったことは確かなようで、諸葛亮が死罪を上奏した廖立(りょうりつ)を流罪に減刑したり、魏から亡命してきた夏侯覇(かこうは)を、張夫人(星彩のモデル)の縁戚であることから一族として迎え入れたりしている。
一方で反乱を起こした魏延は一族皆殺しとし、功臣だが妻を鞭打ちした劉琰(りゅうえん)を処刑させるなど、厳正な処罰も下しており、さほど暗愚な印象は受けない。

陳寿は史家であり、また旧主であることから冷静に劉禅をこう評している。
「呉の孫皓(そんこう)のように残虐な振る舞いは行わなかったが、進んで善政を布いたわけでもない。白糸は染められるままに何色にでも変わるのだ」

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