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夢想大蛇

三国志と日本戦国時代の人物紹介ブログです

三国列伝――蜀・魏延  反骨

    

魏延(ぎえん)字は文長(ぶんちょう)
荊州義陽郡の人(?~234)

蜀の将。
劉備の荊州統治時に仕えたと思われ、益州侵攻戦で活躍し将軍位に昇進した。

219年、漢中王に即位した劉備は、張飛が任命されるだろうという大方の予想に反し漢中太守に魏延を抜擢した。
魏延は「曹操が天下の兵を集めて攻め寄せればこれを防ぎ、配下に10万の兵を与えて攻めさせれば併呑してみせます」と抱負を語り群臣を感嘆させた。

劉備の没後も諸葛亮に重用され、軍事の最高位として活躍。
230年には郭淮、費耀(ひよう)を、231年には司馬懿を撃退した。
だが素行は悪く、1万の兵を預けてくれれば敵中深くまで侵攻し、諸葛亮の本隊と潼関で合流できると豪語し、それを却下されると諸葛亮は臆病だから自分の才能を活かせないとこき下ろし、文官の最高位にいた楊儀(ようぎ)との仲は険悪で、魏延が白刃で彼を脅し泣かせることさえあった。

234年、諸葛亮は五丈原で陣没する間際、楊儀・姜維・費禕(ひい)に撤退の手はずを教え、魏延には殿軍を務めさせ、従わなければ置き去りにするよう命じた。
はたして魏延は命令を無視して戦いを続けようとしたため、楊儀らは彼を放置して撤退に掛かった。
激怒した魏延は退路の桟道を焼き落とすと、劉禅皇帝に楊儀らが謀叛したと上奏した。
楊儀はすぐさま魏延こそが謀叛人だと上奏し、留守を預かっていた蔣琬(しょうえん)、董允(とういん)らも楊儀を支持したため魏延は孤立した。

楊儀は王平(おうへい)に討伐を命じ、王平が「公(諸葛亮)の遺体も冷めないうちに、なぜこんなことをするのか」と一喝すると魏延の兵らは次々と離脱していき、魏延は息子ら数人とともに逃亡したが、馬岱に追撃され首を獲られた。
魏延の首級が届けられると楊儀はそれを踏みにじり「愚か者め、もう悪事はできまい」と罵ったとされる。

諸葛亮の生前、魏延はたびたび頭に角が生える夢を見て、夢占いに長けた趙直(ちょうちょく)に相談した。
角という字は刀の下に用いると書き、すなわち頭を刀で落とされるという意味だったが、趙直は「麒麟が角を武器として用いないように、戦わずして敵軍が敗れる予兆です」とごまかしたという。

陳寿は「魏延は楊儀を除き諸葛亮の後継者になりたいだけで謀叛を企んではいなかった」と擁護しつつも「死を招いたのは自らの責任である」と断じている。

「演義」でははじめ劉表(りゅうひょう)に仕える。
劉表の死後に劉備が弔問に訪れると、すでに曹操に降伏していた蔡瑁(さいぼう)らは迎撃に出た。
魏延は劉備を慕い城内に招き入れようとしたが失敗し、長沙太守の韓玄(かんげん)のもとに出奔した。
なお「演義」では韓玄は独立勢力のように描かれるが、実際は曹操配下であり、劉備を慕う魏延が結局曹操の下に付いたのは不自然である。
その後、関羽が長沙を攻撃すると、同僚の黄忠が内通を疑われ処刑を命じられたのに憤り、反乱して韓玄を殺し劉備に寝返った。
すると諸葛亮は魏延に反骨の相(頭蓋骨が後部にせり出した裏切り者の人相)があるとして処刑を進言した。
劉備のとりなしで魏延は登用されたが、この時の諸葛亮の言動は、先に張飛が武陵を攻めた際に、鞏 志(きょうし)が裏切って太守を殺したのに次期太守に任命されたのと整合性が取れておらず、やはり不自然である。

北伐では史実以上に活躍するものの、諸葛亮とは犬猿の仲で、魏延はたびたび不満を漏らし、諸葛亮は彼を谷底に閉じ込め焼き殺そうとさえした。
さらに死期を悟った諸葛亮が延命の儀式を行うも、魏延が知らず知らずのうちに邪魔をして失敗させるという因縁まで作られた。
諸葛亮の没後には史実と同じく反乱するも、あらかじめ諸葛亮が配下に埋伏させていた馬岱によって不意打ちで殺された。

謀反人として斬られたことや「演義」で誇張された諸葛亮との確執のため、中国でも魏延は並はずれて嫌われており、彼が祀られた廟は鉄道開通の際に移転されず、そのまま取り壊されたという。
解き放たれた魏延の霊が暴れないことを祈りたい。

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